第5話 バクテと青唐辛子


 ひるにホテルまで迎えに来たポーリィさんには、日本人へのわだかまりはないかのように見える。彼女のご先祖にも戦時下の災禍に遭った方が在られたのか如何どうかは知れぬ。私は此の地の方々から恨み言を聞いたことは未だかつてないし敢えて此方こちらから尋ねる積りもないが、歴史を心に留めておくことは無益ではあるまい。


 それよりポーリィさんを憤慨させたのは今朝の朝食だ。

 此の名門ホテルのビュッフェを袖にして其処らの屋台へ出掛けるなどとは有り得ない。何を措いてもこのビュッフェを味わずして何とする、とまるで自身が不当にたのしみを取り上げられたかのような口吻くちぶりだ。

 私にとってはマレーシアでしか出逢えない屋台飯は高級ビュッフェにも劣らぬ御馳走なのだが、れは口にしない方が良さそうだ。では明日の朝食はご一緒にビュッフェを、と提案すると途端に笑顔になった。


 ご機嫌に鼻歌を口ずさんで案内して呉れたのは肉骨茶バクテのレストラン。バクテとは豚アバラ肉を土鍋で煮たスープで、生薬が入っており店によっては薬膳料理のような味がすることもある。そのまま白米にかけても美味しいが、刻んだ大蒜ニンニクと青唐辛子を浸け込んだ醤油で味を調えると一段と旨い。醤油はどろっとした重量感ある中国風の晒油しょうゆだ。揚げ麺麭パンをスープに浸して食すのもまたし。

 食事とともに注文したのは烏龍茶。薬罐に沸かした湯と、茶器セットが出てくるとまずポーリィさんは食器をあらった。ポットの中で茶葉がひらく前の茶湯を碗に注いで、茶碗本体に箸や匙や皿まで湯にひたし、掻き回す。一体彼らは屋台で出てくる食器の清潔を信じていない。その養生観に従えば、自らの手で食器を濯うにくはなし。湯よりも、殺菌作用のある茶の方が良いと信じられている。

 サイドメニューの野菜炒めも出てきた。もやしとニラに縮緬雑魚ちりめんじゃこのような小魚がまぶしてあって香ばしい。これも白米に乗せて食べると、癖になる旨さだ。

 だが調子に乗って山盛り盛った椀にかぶりついた処で、口内に異変が起こった。奥歯で噛み潰したものから熱いとも苦いともつかない汁が迸ったのだ。その正体は野菜炒めの中に隠れていた青唐辛子だと悟った。悟ったがもう遅い。舌も頬の裏も脣までも火傷したかのようにりついて、茶を飲んだぐらいでは収まらない。頸のうしろには汗が次から次へと流れて、眩暈までするのは自律神経にあたったからか。


 青唐辛子は、マレーシアをはじめ東南アジアの料理では欠かせない。日本であれば赤い料理にこそ警戒し、緑の料理には安堵するのが一般だが、此の地ではうはいかない。瑞々しい青こそが危険のしるしなのである。


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