2日目 金曜日

第3話 朝の屋台


 日本とマレーシアとの時差は一時間。時差呆けに悩まされることもなく快適な目覚めを迎えた。

 ただし経度に従えば実は二時間の時差をかぞえるのが正しい。現に隣り近所のタイやインドネシアは時差二時間である。かつて同じ大英帝国の傘下にあった香港とシンガポールとは同じ時間に設定され、シンガポールと一体であったマレー連邦もそれに従ったのが、時差一時間となった理由らしい。


 そのため朝の七時と云えば自然に従うなら六時である筈の時刻で、まだ太陽は雲を紫色に染めるのみでひるの暴虐からは程遠い。

 ホテルを抜け出し世界遺産になっているジョージタウンの旧市街へ向かった。早朝とあってか街を行き交う人々の姿は幾分気怠けだるそうに見える。すこし裏道へ目を向ければ表面の崩れかけた壁に裸の煉瓦が覗いている。傍らには積まれた煉瓦と砂の山とがいつ始まるとも知れない工事を待っている。無機物にさえ見棄てられたようにぽつねんと座り込んでいた男が通行人の視線に気づいたのか、ふと顔を上げた。その目は私を見るでもなく虚空を見ている。ビルの谷間に射す朝の光は裏道に漂う塵を靄のように浮かび上がらせ、同時に男を照らす様子さまは天上からのスポットライトのようだった。



 朝から屋台は何処どこ彼処かしこも繁盛している。

 マレーシアでは三食外食と云う家庭が珍しくない。作るより外で買った方が断然やすいのだ。しかも旨い。何時いつでも食べられるというのも重要だ。早朝から深夜迄、街を歩けば必ず開いている店が見つかり、二十四時間営業の食堂も多い。

 それが此の地の習慣ならば、素直に従うにくはない。実は早朝から街歩きした理由の半ば以上は屋台飯に惹かれたためだ。


 飛びこんだのは、通りの角にあった中華系の屋台レストラン。小さなフードコートとも云うべき風情で、軒先に並ぶ六つの屋台ワゴンの奥にテーブル席が配置されている。客待ち顔のおばあさんに雲吞麺ワンタンミンを頼んで席に着いた。直ぐ店員がやってきて、飲み物の注文をとる。冷茶を頼むと五十センだと云った。

 これがマレーシアの屋台レストランのシステムだ。屋台は店から独立していて、席を提供するレストランの収入は飲み物代。

 雲吞麺はコシの強めな縮れ麺にあっさりスープ。一人前なら苦もなく平らげられる。腹八分目どころか半分程度だが、これでい。食すべきものは幾らでも在るのだ。


 町の中心部を歩いて次の店を探した。左右には倉庫のような古びた建物が立ちならんでいる。空気は現実感をくして、時の巡りさえ狂うよう。

 宿命に導かれる心地でインド系の屋台に入った。頼んだのはロティチャナイ。クレープ風の薄焼きパンを汁気の勝ったカレーに浸すと、香ばしいカレーの匂いが食欲を刺戟する。軽食感覚で、幾らでも食べられそうだ。

 周りのインド人たちは一様に黒いはだ。彼らの故郷はインド南部、話す言語はタミール語だ。嘗ては北部出身の膚白いインド人もいたそうだが、富裕な彼らはマレー連邦成立後次第に他の地に移り住んだ。残されたのはそれだけの財も伝手つてもなかった南部インド人たちだ。

 インド亜大陸から離れて二世紀を経ても、南北格差とカーストの呪縛は容易に解けないらしい。


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