狐の嫁入り

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第1話

 天野幸太郎(あまのこうたろう)は、サンドイッチの入った紙袋を片手に、屋上への階段を駆け上がった。重いドアを開けると、澄んだ青空から大粒の雨が降り出してきた。不足の事態にも慌てることはない。ドアの脇に用意してある置き傘を広げて、いつもの特等席に向かう。するとそこには珍しく先客がいた。真新しいセーラー服に身を包んだ人影が、校庭に向かって佇んでいる。

「濡れちゃうよ」

 声をかけても反応はない。背後からそっと傘を差し出すと、彼女は振り向いた。くっきりとした二重瞼の大きな目が幸太郎を捉える。頬に当たる雨粒がまるで涙に見えて、幸太郎はどきりとした。よく見ると彼女の手にはMDプレーヤーが握られている。彼女はイヤホンをそっと外して「じきに止むよ。見てて」と言うと、次第に雨音が小さくなり、やがて止んだ。

「すごい……」

 幸太郎が思わず感嘆の声をあげると、彼女はふっと頬を緩めた。

「君、名前は?」

「天野……幸太郎」

「コータローか。いい名前だ。私は桜河(さくらがわ)ルカ」

 聞いたことのない名前だった。緑の上履きを履いているということは、どうやら同じ二年生らしい。幸太郎の困惑を察してか、ルカは言い訳するように言った。

「この四月に転校してきたんだ。友達がいなくてね」

「あ! 転校生がいるって聞いてはいたんだけど……君だったんだね」

 幸太郎は雨に濡れていない場所にルカを案内して地面にあぐらをかいた。ルカも幸太郎の隣に体育座りした。

「何聞いてたの?」

「エムエムとか、ゆるりとか」

「へぇ! 僕もゆるり好きなんだ。桜河さんはどの曲が好き?」

 幸太郎は目をキラキラと輝かせて矢継ぎ早に質問する。ルカは少し恥ずかしそうに目を伏せてぼそりと呟いた。

「……君と流星群」

「あー、いいよね、僕もその曲大好きなんだ! ゆるりの描く宇宙はさ、ロマンがあるよね」

「コタロは宇宙が好きなの?」

 こうたろう、が長かったのだろうか、ルカは端折って「コタロ」と呼んだ。

「星を見るのが好きなんだ」

 幸太郎が照れ臭そうに鼻を掻くと、ルカは青空に手をかざして遠い目をして言った。

「私も……星が好きだ」

 それから二人は昼食をとりながら互いのことを話した。ルカは理系で幸太郎は文系、二人とも帰宅部、家は同じ方向など——基本的な事柄を共有したところで予鈴が鳴った。

「また会えるかな」

 幸太郎は身支度を整えながら尋ねると、ルカは口籠もりながら答えた。

「……どうかな。いつも来ているわけじゃないんだ」

「そっか。僕は大抵はここでランチしてるから。また話そう」

 ルカは眉尻を下げて困ったような顔をして微笑んだ。

 その日から幸太郎は足繁く屋上に通った。文系と理系は別棟だったから、校舎内でルカと遭遇することはほとんどない。屋上だけが確実にルカと会える場所だった。ただ、ルカの出没は不規則で、週に二、三度現れることもあれば、一週間丸々姿を見せないこともあった。二人は会うと大抵、星の話をした。

「今年のしし座流星群はどのくらい出現するかな」

 幸太郎は地べたに寝そべり、最新の天文雑誌を空に向けながらルカに尋ねた。

「流星雨」

 ルカの自信ありげな答えに、幸太郎もしたり顔で「僕も今年は大出現する気がしてるんだ」と言うと、勢いよく飛び起きてルカに向き直った。

「一緒に見に行こうよ。星がよく見えるとっておきの場所があるんだ」

 ルカは一瞬目を伏せた。しかしすぐに顔を上げ、嬉しそうに小さく頷いた。

「やった! あ、双眼鏡いるかな……ルカは持ってる?」

「あ、ああ……持ってる」

「よかった。じゃあ、十一月十九日の三時、約束だよ」

 約束を交わしてからひと月ほど経ったある日、幸太郎が職員室の前の廊下を歩いていると、見慣れた顔が向かってきた。

「ルカ!」

 幸太郎が顔を綻ばせて駆け寄ると、ルカはびくっとして立ち止まり、顔を真っ赤にして視線を泳がせていた。そのとき、溌剌とした声が二人の頭上に降ってきた。

「やあ、天野君! 元気かい? 少し見ないうちにまた背が伸びたかな」

「か、神尾(かみお)先生! もう大丈夫なんですか……」

 神尾と呼ばれた教師は、真夏だというのに真っ黒なスーツに身を包んでいた。

「心配ありがとう。天野君は優しいな。でもね、私は教師として君たちを導かなければならない。いつまでも悲しみに浸ってはいられないさ」

 神尾は作り物のような笑顔を浮かべて、片手を振りながら去っていった。痛々しいな——幸太郎が心の中でそう呟いたときだった。ルカが両肩を抱えて小刻みに震え出した。明らかに様子がおかしい。膝から崩れ落ちそうになるルカを慌てて支えたとき、ルカはさっきとは違う、はっきりとした意志を持った目で幸太郎を見上げた。ルカは瞬時に幸太郎の腕を取って駆け出した。幸太郎は驚きつつも、ただならぬものを察して黙ってルカについて行った。

 辿り着いた先は、いつもの屋上だった。

「あの人……とても辛そうだった」

 長い沈黙を破ったのはルカだった。

「神尾先生ね……この間、一人娘を事故で亡くしたんだ」

 幸太郎の答えに、ルカは悲痛な表情を浮かべて俯くと、今まで聞いたこともないような低い声で言った。

「私は……存在しないんだ」

「へ?」

 あまりに唐突で突飛な発言に、幸太郎の声は上擦った。

「コタロは、解離性同一症って、知ってる?」

「えっと……多重人格のこと?」

「そう表現する人もまだ多いね。この身体の持ち主はその〝多重人格者〟なんだ。私は交代人格で、主人格は結花(ユカ)。さっき君が会った子だよ」

 確かにさっきのルカは別人のようだった。幸太郎はごくりと唾を飲み込んで、話の先を促す。

「あの子はね、エンパスなんだ。人の感情に異常なほど共感してしまう。結花の場合は、人の心の痛み——怒りや悲しみを身体の痛みとして感じるんだ。否応なしにね。さっきもあの先生の抱える悲しみを全身で感じ取った。どれほどの痛みか想像できる? あの子にとって、この世界は地獄そのものなんだよ。私は……私という人格は、そんな地獄から結花を守るために生まれた。——なんて、信じられないだろうな」

 ルカは自嘲気味に笑った。幸太郎はしばらく難しい顔をしていたが、突然大きく深呼吸すると、まっすぐルカを見据えた。

「信じるよ、全部」

 ルカは大きな目をさらに大きくしてぱちぱちと瞬いた。

「君は嘘を言うような人間じゃない」

 幸太郎が続けた言葉に、ルカは目を潤ませて整った顔をくしゃっとさせた。

「結花が君を好きな理由が分かったよ」

「え?」

「今日、結花と一緒に帰ってくれないか。あの子、ずっと君と話したがってるんだ」

 今度は幸太郎が目を大きくする番だった。

 六限目が終わり玄関に向かうと、そこにはルカの姿をした女子生徒が下を向いて立っていた。

「お待たせ。結花さん……だよね」

 幸太郎は、自身の緊張を悟られないよう努めて明るく話しかける。結花は顔を上げてこくりと頷いた。

「じゃ、帰ろっか」

 幸太郎は結花の右側を歩いた。結花は鞄の持ち手をぎゅっと握りしめて、地面から視線を離さない。幸太郎は、わざとらしく咳払いをして沈黙を破った。

「もしよければさ、うちに来ない?」

「えっ?」

「あ、変な意味じゃなくて! うちさ、父さんが喫茶店やってるんだ。そこでお茶でもどうかなって」

「う、うん……」

 遠慮がちに頷く結花の頬は、ほのかに赤みがかっていた。

 その店は「銀河喫茶」といった。店主である幸太郎の父、流太郎(りゅうたろう)の天文好きが高じて開いた店で、店内には星の写真がそこかしこに飾られている。

「幸太郎が女の子連れてくるなんて、小学校以来かな」

 二人を出迎えた流太郎は、ニヤニヤしながらグラスに水を注ぐ。幸太郎は下世話な父を無視して「僕が淹れるから」と足早にカウンターに入った。

 幸太郎は慣れた手つきでコーヒーをドリップする。布のフィルターから滴り落ちる茶褐色の液体を、結花は興味深そうに眺めていた。

「お待ちどうさま」

 結花は湯気の立つカップを両手でそっと持ち上げ、コーヒーを口に含む。

「おいしい……」

 そう言って結花は目を細めて笑った。その屈託のない笑顔に、幸太郎はルカとは違う魅力を感じ始めていた。

 その日から二人は毎日のように喫茶店に通い、他愛もない話をたくさんした。十代の男女が距離を縮めるのにそう時間はかからない。いつしか二人は彼氏と彼女という関係になっていた。

「こうちゃんといるとすごく落ち着くんだ。とっても心地いいの」

 そう話す結花は、出会った頃の内気で気弱な姿からは想像もつかないほどに、生気に満ち溢れていた。幸太郎との関係が親密になるにつれ、結花の痛みに共鳴する症状は目に見えて軽減した。それと同時に、ルカが現れる頻度は極端に減り、屋上にも姿を現さなくなった。そうして瞬く間に夏が過ぎ、秋が来て、冬の訪れを感じる季節になった。

「最近ルカ、現れないね」

 いつものように銀河喫茶で二人で過ごしていたときだった。何気なく発した幸太郎の言葉に、結花は一瞬ピクリとした。

「え? ルカに何か用?」

「来週、会う約束してたんだ」

「会うって……なんで?」

 結花は怪訝な顔をしている。

「しし座流星群を一緒に見ようって」

「こうちゃん、星なんか好きだったの?」

 みるみる不機嫌になる結花に困惑しつつも、その原因が分からない幸太郎は能天気な返事をする。

「あれ、言ってなかったっけ? たまに天体観測するんだ」

「……そうなんだ。分かった。約束の件、ルカに言っとくね」

 結花はわざとらしく口角を上げた。その目は今まで見たことのない、氷のような冷たい目だった。

 十一月十九日午前二時三十分、少し早めに約束の場所に着いた幸太郎は、腕時計を睨みながらルカの到着を待った。十分ほど経って、ニット帽にダウンコートという真冬のような出立ちをしたルカが現れた。

「待たせたかな」

「約束のニ十分前だよ。お互い気が早いね」

 久しぶりのルカに、幸太郎は少し緊張していた。

「行こう。少し登るよ」

 五分ほど坂を登ると、視界が開き見晴らしのいい場所に辿り着いた。幸太郎はバックパックに積んだ小さな折り畳み椅子を取り出して手早くセットする。

「コタロ、実は、双眼鏡……」

 ルカが恥ずかしさと申し訳なさを同居させたような顔をさせると、幸太郎は「これ使って。交代で見よう」と、真新しい双眼鏡をそっと差し出した。

「君が双眼鏡を持ってないことくらい分かるよ。結花は星に興味ないからね」

 幸太郎がにっと笑った瞬間、星が流れた。

「きた! すごいよ、ルカ! やっぱり大出現だよ!」

 興奮気味の幸太郎がルカに顔を向けると、ルカはいつになく真剣な面持ちで幸太郎を見つめていた。

「コタロ、聞いて。これからもずっと結花のそばにいてやってほしい。あの子を守ってやって。君にしか頼めない」

「な、なに? 突然どうしたの?」

「約束だ……」

 ルカは幸太郎の右の頬に左手を添えると、静かに顔を近づけ、そっと唇を重ねた。ファーストキスというロマンティックな瞬間のはずなのに、幸太郎はただ胸を締め付けられるような感覚を覚えていた。

 唇を離したルカの目には、大粒の涙が溢れていた。

「こうちゃん……ルカが……」

「結花……?」

「ルカが消えちゃった……どこにも……どこにもいないの……どうして、こんなはずじゃなかったのに……」

 泣きじゃくる結花を幸太郎は優しく抱き締めた。そのとき幸太郎の耳には、ルカの最後の言葉がこだましていた。

 

 あれから十年の歳月が過ぎた。二人は県内の同じ大学に進学し、同じ年に卒業した。結花は地元の町役場に就職し、幸太郎は父の喫茶店を継いだ。

「結花! そろそろ時間だよ!」

 幸太郎は、神社の拝殿の外で一人佇んでいる白無垢姿の結花に声を掛けた。ガラスの戸を開けると、澄んだ青空から大粒の雨が降り出してきた。幸太郎は慌てて結花に駆け寄った。

「せっかくの花嫁衣装が濡れちゃうよ。さ、入ろう」

 幸太郎は結花の両手を取る。すると結花は幸太郎の両手を握り返して、じっと幸太郎を見据えた。

「ねえ、聞いて。私、すごく幸せなんだ。幸せすぎて怖いくらい。こんなにも穏やかで幸せな時を過ごせるなんて、あのときは思いもしなかった」

 花嫁は眉尻を下げて困ったような顔をして微笑んだ。

「ずっとそばにいてくれて……ずっと守ってくれてありがとう。コタロ」

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