物語の終わり
あるいはよくある日常の一コマ
授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。
それが終わるのを待つのももどかしく、僕は帰り支度を始めた。名前も覚えていないクラスメイトの女子が話しかけてくるのに生返事を返し、適当にやり過ごす。この手の話は真面目に付き合っていたら終わらない。僅かな間隙を逃さず話を切り上げて、教室を後にした。
学校前の交差点で、赤信号に引っかかった。舌打ちしたいのを我慢して、ポケットから携帯端末を出す。メッセージが一件、届いていた。差出人はマガハラサイコ。内容はただ一文。『禍福はあざなえる縄のごとし』。意味は不明。いや言葉の意味はわかるのだが、それを僕に送りつけてくる理由はさっぱりわからない。うっかり連絡先を交換して以来、この人はこんな風に意味深なメッセージを時々送ってくる。正直、反応に困るので止めて欲しい。
メッセージは見なかったことにして、顔を上げる。道の向こうに小学生の一団がいた。その中に猫少年を見つけて、僕ははっとした。
猫少年の姿を目にしたのは、例の店に行って以来、初めてのことだ。連絡はこまめに取っていたのだけれど、顔を合わせるのは意図的に避けていた。危険を承知でなにも知らない猫少年を連れていったことに対する罪悪感が、僕にそうさせていた。
猫少年は、こちらに気付くことなく通り過ぎていく。その目は一緒に歩く同級生──どこかで見覚えのある女の子──に向けられていた。手には紙を持ち、少し頬を赤らめながら、周囲を囲む同級生たちになにやら熱心に話している。
もしかしたら、それは猫探しの話なのかもしれない。
寂しいような、ほっとするような。
妙な気分で、同級生に囲まれた猫少年を見送る。
◇◇◇◆
信号が青に変わり、僕は歩みを再開する。
西日の眩しい坂を下る。
今日は、レンズはいるだろうか。
確率は、そう高くない。以前よりは多少改善したものの、いまだレンズは登校しない日の方が多い。登校しない日は、公園にも来ない。つまり、公園に行ってレンズがいる確率は五割を切っている。賭けをするには心許ない数字だが、運試しとしては悪くない数字だ。丁半博打はする気にならないが、四割の確率で大吉が出るおみくじならやってみてもいい。
公園に入る。
レンズがいた。
「ヤマヤドリ」
憂えげだった表情が、僕を見つけた瞬間、ぱっと明るくなった気がした。光によってそう見えただけなのか、それとも僕のうぬぼれに起因する勘違いか。おそらくはどちらかなのだろう。けれど、そうでなければいいな、と願ってしまう。僕が来ることを、レンズが心待ちにしていたのであればいいな、と思う。──僕がそうであるように。
駆けてきたレンズが、僕の隣に並ぶ。こちらを見上げて、花が咲くように笑う。その笑顔が二重写しになり、そして黒い影絵が剥離する。レンズの形をそのまま写し取った影絵のレンズ。僕にしか見えていない、もう一人のレンズ。
「悪い、待たせた」
「ううん、そんなに待ってないよ」
首を振るレンズの横で、影絵のレンズも同じように頭を動かす。前までは僕のことなど気にも留めていなかったのに、最近はこうして反応するようになった。影絵蜘蛛の一件以降、彼女は明確に僕の存在を認知している。いや、前から認知はしていたのかもしれない。ただ、無視されていただけで。それがそうでなくなったのは、もしかすると影絵のレンズの中で僕に対する評価が変わったのかもしれない。それがいいことなのか、悪いことなのかは、わからないけれど。
そもそも、この影絵というものがいったいなんなのか、僕は未だ理解できていないのだ。そんものがこちらを認識していることの善し悪しなど、考えるだけ無駄な気がする。重要なのは、影絵のレンズはレンズに必要な存在だと言うことだ。それだけわかっていれば、その真偽や善悪は──無視していい訳ではないけれど──重視する必要はない。
良きものであろうと、悪しきものであろうと。
レンズが健やかに穏やかな日々を過ごすのに必要なものなら、それは僕にとっても必要なものだ。だから邪険にはしないし、危険が及べば守り、助ける。それでいい。僕にとって重要なのは、それだけだ。
「帰ろうか」
「うん。あのね、ちょっと気になることがあって……」
「また、寄り道?」
「危なそうな人じゃないよ?」
「それなら、まあ、いいけど」
「よかった。あのね──」
僕と、レンズと、影絵のレンズと。
横並びで歩く帰り道は、わりと楽しい。
レンズの話を聞きながら、僕は長い帰路につく。
影絵のレンズ 在原一二三 @ariwara123
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