影絵のレンズ 6

 夕焼けで赤く染まった廊下を歩く。

 窓の外ではカナカナゼミが静かに鳴いている。昼間は強烈だった日差しも、今はノスタルジックな雰囲気を生み出す照明へと姿を変えている。

 目的の病室のドアをそっと開ける。病室は窓が開いていて、夕方の涼しい風が吹き込んでいた。

 レンズはベッドの上で、静かに寝息を立てていた。熱は顔は一層青白く、吐息は熱っぽい。汗でべたついているのが見てわかる。

 面会者用の椅子に腰掛けると、レンズが薄く目を開けた。

「ヤマヤドリ……」

「ごめん、起こすつもりはなかった」

「ん……」

 レンズは視線を彷徨わせ、そして力尽きたように目を閉じた。

「……ごめんね……」

「? レンズ?」

 返事はない。すう、という細い寝息が聞こえる。

 なにについての謝罪だろう。僕がレンズに謝るならともかく、レンズが僕に謝ることなどあっただろうか。考えてみたが、心当たりが一つもない。

 変な夢でも見ているのだろうか?

 訝しんでいると、視界の外から黒い影がするりと姿を見せた。

 影絵のレンズ。

 僕の後ろをついてきた影絵のレンズは、ベッドの脇に立ち、眠るレンズを見下ろした。そのままいつも通り、レンズと同化するのかと思って見ていると、意外にも影絵のレンズはこちらに向き直った。両手を肩の高さに上げ、ゆらゆらと揺らす。

「…………」

 意図はさっぱりわからないが、無視をするのは気が引ける。ひょこひょこと手を振り返すと、影絵のレンズは満足したのか、すとんとベッドに腰掛け、横になった。レンズと影絵のレンズは重なり、そして一つに統合される。

 後には、静かな寝息をたてるレンズが残る。

「レンズ」

 そっと名前を呼ぶと、レンズはすうっと息を吐き、そして目を開けた。

「……ヤマヤドリ?」

「大丈夫か?」

「うん……」

 レンズは不思議そうな顔で、ぱちぱちと瞬きをした。そしてゆっくりと、右手を挙げた。細く白い手が、薄暗い病室の中に浮かび上がる。あまりにも色がないせいで、淡く発光しているようにも見える手。微かに震えていたそれは、すぐに力尽きてベッドの上に落ちた。

「……動いた」

「動いたね」

 呆然としているレンズに代わり、僕はナースコールを押した。


◇◇◇◆


 すぐに医師と看護師がやってきて、僕は半ば追い出される形で病室を後にした。流れに逆らうように廊下を進み、通信可能エリアに移動する。電源を入れると、猫少年からのメッセージが届いていた。今日の礼──おそらくはココアと、その後に食べたパンケーキの──と、また遊びに行きましょうという締めの言葉。精一杯の丁寧な言葉遣いが微笑ましい。すぐに返信したいところだったが、後に回す。先に連絡をしないといけない人がいる。

 レンズの兄だ。

 余計なことを色々書きそうになるのを我慢して、できるだけ質素な文面を作り、送信する。返信は待たず、電源を落とした。

 背中に壁が触れる。

 体重を預け、そのままずるずるとしゃがみ込んだ。

「────……」

 力が抜けて、危うく携帯端末を取り落とすところだった。

 実際のところ、僕がしたのは分の悪い賭けでしかなかった。影絵のレンズを助けたところで、レンズが助かるとは限らなかった。猫少年を連れていったとして、影絵猫が影絵蜘蛛を退けてくれるとは限らなかった。影絵猫が影絵蜘蛛に捕らわれてしまう可能性も、影絵猫が影絵のレンズに悪さをする可能性も、十分にあった。影絵のレンズが無事かどうかはわからなかったし、無事だったとして、レンズの元まで帰ってくれるかもわからなかった。

 上手くいく確信なんて一つもなかった。

 いや、上手くいかない程度なら、まだましだった。状況を悪化させてしまう可能性と比べれば、そんなのは笑い話だ。もしも、僕の行動が原因でレンズの症状が悪化したら? 悪化するどころでなく、致命的なことになってしまったら? 二度と元には戻れないことになってしまったら? 命を失うようなことになってしまったら?

 最悪の想像は、常につきまとった。

 怖かった。

 不安だった。

 怖くて堪らなかった。

 深く、息を吐く。張り詰めていたものがぷっつりと途切れ、心も身体も弛緩している。なにも考えられない。それでもどこかで、まだ終わっていないぞと釘を刺す声がする。そうだ。終わっていない。まだ猫少年のことが残っている。

 影絵猫になにかあれば、猫少年にもなにかしら影響がある。僕はそれを承知で、猫少年をあの店に連れて行った。そうなる可能性を知りながら、僕は猫少年を利用した。幸いにも、今のところ猫少年と影絵猫に異常は起きていない。けれど、まだ安心は出来ない。これからなにかが起きる可能性がある以上、僕はまだ油断するわけにはいかない。彼のことを気にかけ、警戒し、対応しなくてはいけない。当面の間は、気が抜けないだろう。

 それでも、今は。

 今だけは、なにも考えたくなかった。

 ただ、レンズの無事を喜びたかった。

 鼻の奥がつんと痛くなって、視界がぼやける。

 しばらく、立ち上がることはできそうになかった。

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