影絵のレンズ 5
明けて、日曜。
僕はこの日も、朝から外出した。目的地は昨日と同じ、住宅地の端にある小さな喫茶店だ。ただし、その前に立ち寄る場所がある。いつもレンズと落ち合う、あの公園だ。
目的は、ある人物と落ち合うことだ。
その人物なら──いや、その人物についた影絵なら、あの影絵蜘蛛に対抗できるかもしれない。
昨夜、頭をひねりにひねってひねり出した、唯一の策がそれだった。すなわち、影絵に対抗するためには影絵をぶつけるしかない。そのためには、影絵蜘蛛に対抗できる影絵をつけた人が必要だ。どんな影絵でもいいわけではない。影絵蜘蛛の巣にかからない、影絵蜘蛛自身に襲われても抵抗できる影絵。かつ、巣にかかったレンズに危害を加える心配のない影絵。
狭い交友関係の中で、そんな都合のいい人物は一人しかいない。
いや、幸いにも一人だけいたのだ。
「お兄さん」
木陰のベンチに座っていた猫少年が、僕の姿を認めてとたとたと駆けてくる。相変わらす色白で、心配になるくらい腕が細い。だが、前はもさもさしていた髪は少し短くなって、すっきりとした雰囲気に変わっていた。
「悪いね、休みの日に」
「ううん……今日は、猫、探さないから」
「そうか」
「迷い猫、最近は減ったみたいで……」
「そうなのか?」
「たぶん……みんな、気をつけるように、なったから」
「いいことだな」
「うん……はい」
猫少年を連れて、喫茶店を目指す。来る前にきちんとルートを確認しておいたので、移動はスムーズだった。十分程度で、目的地にたどり着く。
「こんなところに、お店……あったんですね」
「僕も最近知った」
「あの……ぼく、お金、あんまり……」
「僕が出すよ。こっちの都合で、休みの日に出てきて貰ってるんだから」
猫少年を呼び出した表向きの理由は、迷い猫探しのボランティアに関するインタビューだ。学校の課題でレポートを書くため──というのは、実は嘘ではない。そういう課題があるのは本当だ。ただ、指定されたレポートのテーマは『社会福祉』である。猫探しがそれに該当するかは、担任の判断次第だ。担任が猫に対して並外れた愛情を注ぐタイプの人であることを祈る。
かろん、というまろやかなベルの音に迎えられて、一日ぶりに入店する。変わらず、ゆったりと落ち着きのある店内。そして影絵蜘蛛と、巣に絡め取られた影絵のレンズ。この一晩でぐるぐる巻きにされていたらどうしようかと思ったが、最悪の展開は免れたようだ。まあ、無事は一度も確認していないので、実はとっくに最悪な状況なのかもしれないけど。
アイスティーとアイスココアを注文し、昨日と同じ席に着く。用意してきたインタビュー原稿やレコーダーの準備をしつつ、僕は影絵猫の到来を願った。これで影絵猫が出てきてくれなかったら、もはや打つ手なしだ。
祈りが通じた──わけではないだろうが。
果たして、影絵猫は現れた。
猫少年の背後から、ぬっと姿を見せた影絵猫は、あたりを見回した後、両前足を突き出すように、にゅーっと伸びをした。相変わらず、大きい。軽自動車サイズの巨体が視界を塞ぐ。このサイズなら、間違いなく影絵蜘蛛に捕まる心配はないだろう。
影絵猫は、すぐに影絵蜘蛛に気付いたようだった。やや身を低くし、迂回するようなルートを取って、じりじりと距離を詰めていく。ゆらゆらとしっぽをの先が揺れていた。ぴたり、と一瞬、身体が停止する。そして次の瞬間には、ひょうっと音もなく飛びかかっていた。
しかし、影絵蜘蛛の方が早い。影絵蜘蛛は細く長い脚を器用に操って、蜘蛛の巣の中心からすすすっと移動した。留守になった巣に、影絵猫が飛び込む。細い糸は影絵猫の巨体を受け止めることはできない。巣はあっさりと破られた。
その間に、影絵蜘蛛は壁を早足に伝い、カウンターの中まで退避していた。そこには店主の女性がいて、僕らに出すためのドリンクを作っていす。影絵蜘蛛は一目散に店主の下へ行くと、すっと姿を消した。宿主に隠れて、影絵猫をやり過ごすことにしたらしい。さすがにあの巨体と真っ向からやり合う気はないようだ。
そんなことが起きているとは知らない店主は、トレイにグラスを乗せて、しずしずとこちらへ運んでくる。
「お待たせしました」
グラスが二つ、テーブルに並べられる。僕と猫少年は、その作業を無言で見守る。猫少年は少し緊張した面持ちで。僕は努めて無表情で。内心では、今この瞬間、店主から影絵蜘蛛が飛び出してきたらどうしようかと考えて、冷や汗をかいていた。実際そうなったら、どうしようもないのだけど。
幸い、影絵蜘蛛は脚の一本すら出てこなかった。
影絵猫が、じいっとこちらを見ていたからかもしれない。
店主が去る。
遮られていた景色が、見えるようになる。
影絵のレンズがいた。
影絵のレンズは、奥の席のテーブルの上に立っていた。鬱陶しげに、身体中にまとわりついた蜘蛛の巣をばたばたと払いのけている。少しイライラしているのか、長い髪がゆらゆらと揺れていた。
影絵のレンズは、無事にそこにいた。
しばらくの間、影絵のレンズは蜘蛛の巣と格闘していた。だが、はっとしたようにこちらを見ると、慌てたようにこちらへ駆け寄って来た。その動きがレンズと全く同じで、彼女がレンズと同一存在なのだということを再確認する。
影絵のレンズは僕の隣まで来ると、所在なさげにその場に立ち尽くした。宿主であるレンズが不在で、どうしたらいいのかわからないのかもしれない。その横では影絵猫が前足をびびびと振っている。からんだ蜘蛛の巣がとれないのかもしれない。
「……それじゃあ、インタビューを始めます」
笑いそうになるのを堪えて、僕はレコーダーのスイッチを押した。
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