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寺音
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分厚い曇が割れ、光が帯状に降り注ぐ。地上へと突き刺さった光芒は、
彼は徐に歩き始めた。その度に身につけた鎧や剣鞘が擦れた金属音を立てる。今まで何度も彼の命を救ってきたこの武具も、もうお役御免だ。
彼が行く足元には草の一本もなく、風は砂塵を舞い上げるばかり。
ある時この世界に、“魔王”と呼ばれる存在が現れた。
かの身体から発せられる
人々はある時は魔物に、またある時は“悪き気”による病で命を落とした。
そんな“魔王”が勇者に倒されてから、まだ数日。
遠く離れた地では、僅かに大地の息吹が感じられることもあると言う。しかし魔王がその生命を終えたこの地では、まだ命の脈動は見られない。
それでも世界は救われたのだ。この地は以前、草木が生い茂り色とりどりの花が咲き乱れる美しい土地だったと聞く。
きっとこれから元の姿へと戻っていくのだろう。
彼はまだ見ぬ光景に思いを馳せながら歩を進めて行く。やがて大小の瓦礫が転がる一帯へとやってきた。
そこはかつて、魔王が住んでいた城のあった場所。激しい戦いの中で崩壊し、以前の堅牢たる姿は見る影もなかった。
ふと、彼の
それは人だった。灰色のひび割れた床の上に、小さな背中が蹲っているのが見える。漆黒はその者の身に纏うローブの色だったようだ。それで頭から腰までを覆い隠していたのだ。
彼は腰の剣に手をかけながら声をかける。
「君は――」
近寄ってみて、その背が想像よりもずっと小さな物である事に気づく。それどころかそれは、年端も行かぬ少女だった。
少女は驚いた様子もなく立ち上がり、振り返る。
彼は思わず息を呑む
フードの下から覗くその瞳は、月光の様な淡い金色をしていた。
「貴方、魔王を倒した勇者?」
少女は随分と大人びた声を発した。何の感情もこもっていない、ただの事実の確認である。
敵意が微塵も感じられない為、彼は一先ず剣の柄から手を下ろす。
「ああ、結果的にそうなっただけだけどね。君はどうしてこんな所に? ここは危ないよ。まだ、魔王の気が残っているかもしれない。残滓とは言え心や身体を蝕まれては、どんな影響があるかも分からない」
「平気よ」
少女はあっさりとそう言う。勇者である彼が狼狽えている間に、彼女は更に驚くべき事を告げた。
「私、貴方が殺した“魔王”と一緒に過ごしていたのよ」
「なん——だって」
どう言う事だ。勇者は魔王を思い出す。
姿形は人そのもの。しかし、全身から発せられる気配は、正に“毒”だった。対峙しているだけで背筋が凍り、足がすくみ、気が狂ってしまいそうになる。今思い出しても、よく勝てたものだと思う。
その様な存在と、この少女が共にいた。あり得ない。
彼の戸惑いが伝わったのだろう。少女は頭を覆うフードに手をかけ、言った。
「そうね。私きっと人じゃないから、一緒にいても平気だったんじゃないかしら」
そしてそのフードを取り去る。
顕になったのは、漆黒の髪と、その頭上に生えた二本の角。まるでドラゴンの様だ。角の生えた人間など、彼は見たことも聞いたこともない。
「珍しいでしょう。だから気づいた時には、一人だったわ。捨てられたのか、最初から一人だったのかは分からないけれど」
少女は話を続ける。相変わらず抑揚のない作り物のような声。勇者に向けられたその瞳も、本当に彼を見ているのか分からないほど、虚だった。
「ある日、あの方が私の前に現れたの。そして何も言わず、私を城へ連れ帰った。理由は知らないわ。気まぐれなのか、何か利用価値を見出したのか。それでもその時から私は、一人じゃなくなった」
勇者はただ、彼女の話を聞いていた。
「特にあの方は何もしなかったわ。一日の大半は城にいて、ぼんやりと空を眺めているだけ。私と言葉を交わすこともなかった。ただそこにいただけよ」
食べる物と着る物は、何処かから持ってきてくれていたけど。少女は身に纏う漆黒のローブへ視線を落とす。
「数日前、初めてあの方が私に声をかけたの。『ここから出て行け。何処へでも好きな所へ行け』とね。訳も分からず私は追い出されて、何とかまた戻ってきてみれば……こうなっていたの」
少女は周囲をぐるりと見回す。
「きっと、あの方もこうなる事を分かっていたのね」
「その、僕は——」
ようやく発した彼の声は、思っていた以上に擦れていた。少女は少し目を伏せて、首を横に振る。
「仕方がないわ。あの人の存在は、この地に生きる全ての物を滅ぼす。きっと、生まれてくる世界を間違えたのね」
その声に刺はない。きっと本心なのだろう。
「それでも私にとってあの方は、私を救ってくれたただ一つの大きな存在だった。いくら貴方が世界を救った勇者であってもね」
「——僕が、憎いかい?」
冷たい言葉が口からこぼれ出た。
彼にとっては永遠と同じくらい長い沈黙の後、少女は口を開く。
「まだ分からないわ。あの方を喪って悲しいのかも、貴方が憎いのかも」
そこまで言うと、彼女は自分の右胸に両手を置いた。
「今はただ……ここに大きな“穴”があるだけ。きっとこの“穴”は、私が生きている限りずっと……埋まる事はない。それだけは分かるわ」
彼は何も言えない。その穴を埋めてくれる存在を少女から奪ったのは、紛れもない自分だ。
風が二人の間を吹き抜けていく。少女の漆黒の髪を微かに揺らす。
そうね、と何か思いついた様に、少女は呟いた。
「もう少し、時間が欲しいわ。静かに何も考えなくても良い時間。そうしたら、分かるかもしれないわ。自分の感情が」
彼女は顔を上げ、真っ直ぐに勇者と目を合わせる。
その瞳は彼の緑青を飲み込んでしまうほど、暗く深い色に変わっていた。
「もし自分の気持ちが分かる時が来たら――もう一度貴方を訪ねても良いかしら? 殺す為か、殺される為かは分からないけれど」
彼は一瞬、閉口した。しかし決して彼女から目は逸らさない。背けてはいけないのだ。
少しの沈黙の後、彼は口を開く。
彼が発した言葉に少女は、口元にほんの少しだけ笑みを浮かべた。
あれから何年も、何十年も経った。
この世界にかつて危機が訪れていたことも、魔王と呼ばれた世界を蝕む存在がいたことも、まるで空想の中の物語のように語られている。
ある夜、老人は部屋の窓から空を眺め、その緑青の瞳を細めた。
「おじいちゃん、どうしたの?」
鈴のような声が老人を呼ぶ。視線を下げれば、愛しい存在が自分の傷だらけの腕にそっと触れていた。
「痛いの?」
どうやら無意識に古傷を触っていたようだ。安心させるように、老人はそっと男の子の頭に触れる。
「ああ、心配かけてすまないね。これはもう、随分と昔の傷だから痛くはないんだよ」
「でもコレのせいで、おじいちゃん剣を持てなくなっちゃったんでしょ?」
右腕には手のひらから肘にかけて一際深い傷跡がある。男の子の言う通り、その傷のおかげで老人は剣を振るう事は出来なくなっていた。
「おじいちゃん、世界を救うほど強かったんでしょ? せっかく強かったのに……誰にやられちゃったの?」
遥か昔、一時だけ“勇者”と呼ばれた彼は、すぐにその存在を歴史の影に潜める。同時にその傷をつけた存在も、魔物から路上のゴロツキまで噂ばかりが先走り、真実を知る者は誰もいない。
当の本人達、以外は。
「良いんだよ。これで、良かったんだ」
首を傾げる男の子の頭を、老人はもう一度優しく撫でた。
そして視線を夜空に向ける。月光が大地に向かって降り注ぎ、空には無数の光が輝く。
老人は右胸に両手を当て、長い息を吐いた。
「そうだね。大切な話をしようか」
その嗄れた声で、老人は語る。
「これは、たった一人の少女を救った——勇者のお話だ」
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