喫茶グレイビーへようこそ series 8

あん彩句

KAC20228 [ 第8回 お題:私だけのヒーロー ]


 この店で占うと、全てがうまくいくらしい。オレが働くその店の名前は、喫茶グレイビー。占い師のハルマキさんは、今日もビシバシ言い当てる——いや、客じゃなくて、オレのことを。


あくたったら、よくそうサボる口実ばっかり見つけられるわねぇ」


「コソコソやるってところがクズだよな」


 あやさんに言われてカチンときた。だって堂々とサボったら命がなさそうじゃんか。綾さんは年下で女だけど、オレのボスというポジションになっている。いや、オレが綾さん専用のパシリと言った方が正しいか。


 ホルダーで吊っている左腕は骨折していて、首から弱点をぶら下げているようなものなのに、手が出せない。それどころか、最悪に鋭い目と乱射される悪口で返り討ちにあって瀕死になる自信がある。


「綾ちゃーん!」


 店の入り口を開けるなり、そんな綾さんを呼んだのはミサキさんだ。このところ忙しそうで顔を見せなかったけど、落ち着いたらしくまた足繁く店に通って来る。

 ニコニコして害がなさそうだけれど、綾さん以外に興味がないのでオレには冷たい。


「はい、どうぞ」


 そうやって小さく折り畳んだ紙を綾さんに手渡した。綾さんはカウンターに座って頬杖をつき、無表情でそれを受け取った。そして片手で器用に紙を開いて中身を確認すると、それをハルマキさんへ差し出す——ハルマキさんは中身を見もしないで灰皿の中で燃やしてしまった。


 オレはカウンターの中で皿を洗いながらそれを眺めていた。その意味のなさそうな行動の理由は察しがついている。だから口は挟まない。挟まない方が身のためだ。


 オーナーであるトムさんには喫茶店以外に本業がある。トムさんは本業について、『誘拐、公文書偽造、簡単に言うとそんなところだ』とオレに説明した。今のところ、それが本当の話なのかわかっていない。



 でも、わかる時が来てしまった。


 綾さんがオレに車を出せと命じたのは、それから2日後だった。夕方、陽が沈む前。


 真っ黒な怪しすぎるハイエースの運転もずいぶん慣れた。傷つけたら殺されそうなのでかなり神経は使う。お陰で集中力が上がった気がする。


 助手席に乗り込んだ彩さんはいつも通り横柄に足をダッシュボードの上に投げ出した。


 でも別人みたいに思えたのは、髪がいつものブルーじゃなく茶色で胸の辺りまであったからだ。しかも可愛らしくくるりと巻いてある。ウィッグなんだろうけどぱっと見じゃ判断できない。じっと見て感心していると、舌打ちされた。


「さっさと出せ」


「ハイ」



 綾さんの雑な道案内で辿り着いたのは、殺風景な団地だった。なんとも言えない独特な空気に包まれて、吹き溜まりには落ち葉が、ゴミ収集所にはルールを無視した袋が転がっている。

 その一角に車を停めて、ついてくるように綾さんが言うので車を降りる。向かった先は公園だった。


 公園では小学生の子供たちが遊んでいた。楽しそうに無邪気に笑う子供たちを眺めて、綾さんがベンチに踏ん反り返る。オレはその横に座った。


 もうすぐ完全に陽が落ちる。それでも子供たちは帰る様子がなかった。いつまでこうしているつもりだろうと身震いすると、その仲間から離れてこちらへやって来る男の子がいた。



「よう」


 綾さんがそう声をかけると、男の子が思いっきり怪しんでこちらを見て、それでも足を止めた。この人は子供に対してもこの態度なのか、とちょっと驚く。


「お前、ママにそっくりだな」


 笑いながら綾さんが言う。男の子はますます顔を険しくした。


「あんた誰?」


「名乗る義理はない」


 自分から声をかけておいてこれだ。この目に怯まない男の子もすごいな、と思う。


「お前のママを知っているってだけだ。お前は自慢の息子らしいじゃないか。小学5年生にもなれば1人で何でもできる、他の親は子供を甘やかしすぎだって言ってたな。それが本当か確かめに来た。あの女の言うことはどうも信用できねぇんだよ。なにしろ、お前にコンビニのおにぎり一つ置いて遊び呆けてるバカ女だろ?」


「あ、綾さん——」


 男の子の顔がますます険しくなって、オレは思わず綾さんの腕を掴んでいた。オレがどうこうしたところで綾さんはびくともしなかった。薄ら笑いを浮かべながら、男の子を見上げる。


「今だって帰るふりしてどこか行くつもりだろ? 家に戻っても煙たがられるだけだ。いや、誰もいないのか? ゴミ溜めみたいな部屋には戻りたくないって? せんべい布団で震えながら寝るんだろ?」


 ぎゅっと唇を結んだ男の子は、今にも泣いてしまいそうだった。オレは恐ろしくて男の子を見ていられなくなった。でも、表情を変えない綾さんもまた、怖い。


 綾さんが踏ん反り返るのをやめて、前屈みで男の子を見据える。


「お前に言いたいことがいくつかある。まず、あたしはお前を誘拐するつもりだ」


 男の子が動揺して目を見開いた。それを味わうように綾さんが一呼吸置く。大きく息をした男の子は、ぎゅっと唇を噛んだ。

 綾さんがニヤリと笑った。


「今までママの顔色とご機嫌を窺って上手いこと乗り越えて来た能力を最大限に活用してよく聞け——このまま成長してグズになりたかったら残れ。別の未来に賭けたいなら全てを捨てろ。あたしたちは連れ出した後お前を殺すかもしれないし、運良く生き延びても今よりひどい毎日を送るかもしれない。それを覚悟するなら——」


 綾さんはポケットからスマホを取り出し、タイマーのアプリを開いた。それを男の子へ向ける。


「——10分待ってやる。有金を全部持ってここへ戻れ」


 行け、と綾さんが冷たく言い放つと、男の子がごくりと音を立てて唾を飲み、走って行ってしまった。背筋がヒヤリとした。誘拐なんて堂々と宣言して、通報でもされたらどうするんだ。


「全部捨てろなんて、小学生に言っても……」


「言っても、なんだ? お前は追い詰められたことなんかねぇだろ。取り繕った愛情は針の筵だ。わかればわかるほど敏感にその裏を感じ取る。そこから逃げるか、耐えるか、アイツはちゃんと自分で選べる」


 そうやって立ち上がった綾さんは、車に向かって歩き出した。ここで待ってると言ったはずなのに、そう思いながらも何も言えずについていく。しばらく歩き、車のすぐそばまで来た時に、向こうから全速力で走って来る男の子が目に入った。

 青い大きなリュックを背負っている。綾さんはポケットから手袋を取り出して手にはめた。


「これ!」


 男の子がカードを差し出す。


「金なんか持ってないから、ママのカード持って来た」


 肩で息をしながら男の子が言う。驚いた。男の子は小学生らしくない逞しい顔をして綾さんを見上げた。


「ばーか、こんな端金いるか」


 綾さんがそのカードを摘んでポイッと捨てる。そして、男の子のリュックを開けると、内側に縫い付けてあった布を破った。そこから出てきたのはキャッシュカードだ。裏に暗証番号を書いた紙が貼ってある。


「ばぁばに感謝しろよ。そんで、あたしたちにもな」


 綾さんが男の子の頭をぐりぐりと撫で回した。そして、そのキャッシュカードをポケットへしまってしまった。男の子は純粋な目で綾さんを見上げている。

 いたたまれなくなった。これが夢じゃないのだとしたら、オレはなんて平凡な日々を過ごして来たのだろうか。少なくとも母親から逃げたいと思ったことはなかった。



「乗れ」


 綾さんが車の方をアゴで示して男の子にそう言った。男の子が後ろを振り返った。温度の感じないコンクリートの壁の団地が、静かにそこにあった。

 男の子がどんな顔をしたのか、オレには計り知ることすらできない。歯を食いしばっていなければ、涙が出そうだった。


「おい、ガキ。ひとつだけルールがある。お前はこれから何を選んでもいい。戻りたきゃママのところへ行け。あたしたちは誰も、絶対にお前の意志を否定しない。だから、黙っていなくなるな。それは必ず守れ。お前が急に消えると心配する。心配っていうのはな、死ぬほど辛いストレスなんだよ」


 男の子は、それを後頭部で聞いていた。じっと動かないまま、その団地を眺めて。


 オレは運転席に乗り込んだ。綾さんも助手席に乗り込み、いつも通りダッシュボードへ足を投げ出した。肩にどっしりと重いものがのしかかったみたいだった。心臓がバクバク音を立てている。手が震えていた。

 ちゃんとしなきゃ。ちゃんと——ちゃんとって、なんだ? オレができることは、少ない。



 しばらくして車に乗り込んできた男の子は、オレよりも落ち着いて後部座席へ座った。バックミラーで確認したら、男の子は少し笑っていた。笑って身を乗り出し、ミラーでは見えなくなった。


「ねえ、どこ行くの?」


 振り返ったら、楽しそうな男の子の顔があった。綾さんはいつも通りの恐ろしい目つきだったけれど、男の子を振り返った時は微笑んだ気がした。


「お前が震えずに眠れる場所」


 綾さんはそう言ってから、オレの腕を目一杯の力で叩いた。


「出せ」


 そう言いながら、綾さんが茶髪のウィッグを取った。男の子は面食らったようにのけぞって、でもその次の瞬間には彩さんを覗き込んでいた。


「すっげー、超青いじゃん!」


「うっせぇな、クソガキ!」


 唸るように言ったくせに、綾さんは顔をくしゃくしゃにして笑った。オレは見たこともないその笑顔を横目にゆっくりと車を動かした。

 後部座席で男の子がバカみたいにはしゃいで弾んでいる。綾さんが振り返り、冷たく言った。


「ぴょんぴょんすんな! あー、うっぜぇ」


 車はまっすぐにひた走る。向かう先は綾さんが雑に教えてくれる。オレはもう、この人のその雑な道案内で進んで行こうと思う。女のくせに、なんて思ってた今までを死ぬほど後悔してる。


「ちゃんとシートベルトしろよ」


 オレが男の子に言えたのはそれだけだった。バックミラーで見たら男の子はやっぱり笑っていて、がんばって笑って、そして涙を流していた。

 それがどんな涙なのかオレなんかにはわからない。わからないけど、後悔はさせたくないと思った。大丈夫、きっと全て、うまくいく。




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