ユグドー、使命のきば編
眠れない。
リリアーヌを助けたいと思った。だから、リュンヌ教国から彼女を救うのだ。
何度も、そう呟いた。でも、そのたびに誰かが、ささやいてくる。何故、彼女なんだ。
リュンヌ教国の悪徳によって苦しめられている人々は、多くいるではないか。
使命感を感じるほどの絆でもあるのか。
父母を助けるのか? 兄弟を助けるのか? 友を助けるのか?
苦しい。心が、苦しい。
リリアーヌの顔が浮かんだ。彼女が助けを求める姿と、今まで助けられなかった人たち。
混じり合って、小さな手を伸ばしている。
流れていく、汚水の川に動物の死骸が浮き沈みしていた。汚物の塊に引っかかったのだろう。
汚物を喰らう動物たちが、金切り声とともに死骸を喰い散らかしている。
(汚物以外にも、食べるんだ……)
結局は、一睡もできなかった。
✢
この地下水道は、街の全てにつながっている。そうでなくては、意味がないからだ。
ユグドーにとっては、好都合であった。もうすぐ、破魔大祭がはじまるだろう。
地下水道にいても、分かる。感じる。人々の動きが激しくなった。
公開された破魔大祭ともなれば、他国からも信者がやってくる。
この街が、イストワール王国領の場合は、自国民とリュンヌ教国の民以外は受け付けないが。
それほどの強気は、武器を多く持っているからだ。
でも、ユグドーは、武器を持っていない。あるのは、悪魔の力のみだ。
でも、心は。リリアーヌを救いたいという心は。持っているはずである。
また、声が聞こえた。すぐ近くで。
「やあ、破魔大祭を潰そうって悪魔はここかな?」
「うわっ!?」
ユグドーの肩に手が触れた。声の主は、昨日の眠れなかった原因とは、違うものであった。
「聖門長っ!! 何故……ここに?」
ユグドーは、聞いておいてすぐに馬鹿な質問だと、撤回したくなった。
今すぐに、悪魔の力を使うべきだと腹部に手をそえた。悪魔の声は、すぐに反応してくれる。
「ふ、ふふっ。あぁ、巫女姫さんなら、その鉄梯子のすぐ上だ。仮設の控室になってるからな」
聖門長は、天井を指差した。その顔は、怒りに燃えるわけでも、ユグドーを侮っているわけでもない。
ユグドーは喉の先まで、出ている言葉を何度も飲み込んだ。
汚物の川の流れだけが、二人の間を行き交う。
「なあ? ユグドー。なぜ、破魔大祭の邪魔をするんだ? 聞かせてくれよ」
聖門長は、大盾を壁に立てかけると、その場にあぐらをかいた。
「リュンヌ教国は、悪だからだ。悪い奴らだから、たくさんの人を殺しているから、だから……」
ユグドーは、自分が酷く情けなくなった。決意は何だったのか。自分を責めて、鼓舞した。
「それが、リリアーヌを助ける理由か? おぉ。すげーな。なら行けよ。その決意を試してみろ」
聖門長は、ユグドーをしっかりと見据えている。
怖い。と、ユグドーは感じた。なにかを隠したがっている。自分がいる。
でも、悪を滅ぼすことに使命を感じる自分もいる。今までにない気持ちだ。
ユグドーは、震える手で、鉄梯子を掴んだ。
ひんやりと冷たい感触と、背後からの視線に背筋を伸ばした。
(僕は、悪を、リリアーヌを、救う。使命だから。僕には、力があるから……)
一歩、一歩、一歩。天井に近づく。蓋を開けた。日差しが差し込んでくる。
顔を出した。聖門長の言葉が嘘でなかったことが、証明された。
「リリアーヌ……」
ユグドーは、何故か声が出なかった。大声で、助けに来たと言えなかったのだ。
リリアーヌは、ユグドーに気付いた。驚いた顔はしていない。
遠くから、祝砲のような声が聞こえてくる。楽隊の規則的な演奏がはじまった。
「やっぱり、来てくれたわ。もうすぐ、終わるわ。あと2回で、悲劇がすべて終わるの」
リリアーヌの瞳は、琥珀のようだった。
その幼い顔に迷いはない。助けを求めていたように聞こえたのは、幻聴だったのだろうか。
「……でも、その後は、どうなるの? 悲劇のなくなった世界に、リリアーヌはいる?」
ユグドーの質問に、リリアーヌの顔が一瞬沈んだ。ユグドーは、それだけで十分だった。
「逃げよう。僕は、誰か一人を犠牲にするやり方は、間違っていると……」
ユグドーは、自分が何を言おうとしているのかが、分からなくなった。
逃げてどうするのだろう。リリアーヌと一緒に逃げるとして、その先はどうする。
「巫女姫様、そろそろ。お時間っ、何者だ。おい、そこのガキ。お前、腹の中に何を飼ってやがる。黒き民の末裔が、白き民の願いを蹂躙するかッ!!」
教門騎士は、三人。漁村のときに比べて、数は少ない。悪魔の力を使えば、成し遂げられる。
正義……を。悪徳を阻止することが正義。それが、使命。リリアーヌを助けることは、正義。
「うぅ、なんだよ。なんなんだよ」
「や、やめて。彼は、ただの信者だわ」
教門騎士は、リリアーヌの制止を無視して、剣を抜いた。
悪魔の力を見抜く教門騎士には、嘘は通用しない。やるしかない。
ユグドーは、悪魔の力を解放して、飛び掛かった。教門騎士のひとりを組み伏せる。
「やめて、ユグドー」
「馬鹿者め、この間合いを誘ったのが分からないか、よし、法願魔術だ。やれ」
残りの二人の教門騎士は、手を合わせて「
ユグドーの体は、大きく伸びたかと思うと、膝を抱えて丸くなる。
教門騎士のひとりが、ユグドーの背中を蹴った。
内臓が、ぐらぐらと揺れるような感覚がした。咳き込むユグドーは、赤く染まった反吐を吐いた。
「酷いわ。ここまでしなくても……」
リリアーヌが、ユグドーに駆け寄る。不思議と思考が整理された。
自分が敗北したのは、法願魔術のせいだ。悪魔の力では、叶うはずもない。
このまま、殺されるのだろうか。
リリアーヌの悲しそうな顔を見ていると、自分がしたかったことが、分からなくなる。
「ユグドーを助けてあげて、彼を殺すなら、私を殺してからにして……」
リリアーヌは、ユグドーに覆いかぶさった。ユグドーの目から、涙がこぼれる。
(人間って、こんなに暖かいんだ。でも、僕を殺そうとする教門騎士も人間。悪魔は、こんなに暖かいのかな……)
思考がひどく乱れる。心臓の鼓動がはやくなる。
「巫女姫様、そのような真似はすべきではありませんよ。そこを退いてくださいよ。そんなみすぼらしいガキへの愛よりも、人類への愛でしょ? 巫女姫」
教門騎士は、大きく息を吐いた。後ろから笑い声が漏れる。
愛とはなんだろう。ユグドーは、罵倒よりも愛の意味が気になった。
「はいはい。そこまで、そこまで。愛じゃないでしょ? 巫女姫さんの優しさだよ。やられ役の悪人みたいなセリフはやめろよ?」
聖門長の声だ。首が動かないから、姿も見れない。でも、場の雰囲気が変わったのは理解できた。
「聖門長様、しかし、このガキは、悪魔が。それに、破魔大祭を阻止しようとしたのです」
「阻止したのは、てめえらだよ。その悪魔とやらの血で祈願所を汚しやがって。すでに、教皇には報告済みね。誰がやったとは言わなかったけど? この意味わかるよな?」
聖門長は、語気を強めて言う。教門騎士たちはかすれた唸り声を発して、息を荒げるだけだ。
「巫女姫さん、破魔大祭は中止。いいですね? そのガキは、俺が預かります」
リリアーヌは、唇をかみしめて頷いた。今にも泣きそうな表情だった。
太陽を過ぎ去る雲が、日差しをさえぎる。
法願魔術の影響なのだろう。ユグドーの意識は、次第に薄れていった。
なんのために、こんなことをしたのか……。答える声はなかった。
✢
「よお、お目覚めか。王子様になれなかった野獣くん。まぁ、そんな歳でもないか。子供だもんな、ユグドー君……」
日差しが強い。雲はなくなっている。手に何かが、当たる。掴んでみた。この感触は、土だ。
音が聞こえる。波の音、磯の匂い。海が近くにあるのだろう。
鳥が、空を回っている。鳴き声が、遠くまで響いていた。
「海、漁村……かな?」
聖門長は、寂しそうに笑った。首を横に振ると、ユグドーの上体を起こしてくれた。
どこまでも続く海だ。ユグドーは、浜辺に寝かされていた。
爪を立てた後もある。
「島流しさ。ユグドー、あの決意じゃ、リリアーヌは救えなかったよ。嘘とごまかしの決意だからな?」
「嘘? ごまかし?」
「でも、でも。ありがとな。おかげで、破魔大祭を潰せた〜」
聖門長は、笑顔を見せた。その笑顔は心からのものだ。この人は、リュンヌ教国の側ではない。
「ユグドー、ここで。よく考えろ。なんで、リリアーヌを助けたかったのかを。とくに、この島には、考えるのに適した洞窟がある。そこで、よく考えろ。いいか、洞窟でよく考えろ……。生きてたら、また会おうぜ。ユグドー」
聖門長は、わざとらしく誇張するような口調と、どこかを指さしながら消えていく。
まるで、霧のように。
無人島に一人残された。ユグドーは、寒さを覚える。
(僕は、人の暖かさを知ってしまったんだ。リリアーヌ……)
この思いは、なんだろう。ここには、教えてくれそうな人は誰もいないのだろうか。
(いや、自分で考えるんだ。洞窟、そうだ。洞窟で、考えよう。僕は、何が間違っていたんだろう)
ユグドーは、立ち上がると、歩き出した。聖門長が、指し示した洞窟を目指して。
✢✢✢
ヴォラントの冒険譚に曰く。
聖門長は、謎多き人物だ。
一番の謎は、彼がリュンヌ教国建国時から生きていたことだろう。
リュンヌ教国の成立は、千年以上前だが、建国となると、イストワール王国と同じだ。
つまりは、851歳以上である。
彼が、人間ではないというのは、誰もが噂すること。リュンヌ教の不思議のひとつだ。
ちなみに、破魔大祭の中止事例は、数多くある。
どの中止の時にも、彼がいたという話がまことしやかにささやかれている。
教皇が、彼を解任することは、絶対にない。
また、彼の上司に当たる神門長も、聖門長の失態などには無視を決め込むらしい。
それはさておき、ユグドーだが。
巫女姫リリアーヌを助けようとした動機については、意見の分かれるところだ。
幻聴の話は、地下水道のねずみ男の著書「百のかじり話」から見つけた一節だ。
今日は、その一節を紹介して、筆を置こう。
ある日、僕は見たのです、聞いたのです。汚物を喰らう動物とお話をする男の子を。
あれは、駆け落ちを約束する男女のひそひそ話でしたよ。僕もかじりましたよ。それは。
【ユグドー決意の使命のきば編】完。
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