ユグドー、決意の咆哮編
ヴォラントの冒険譚に曰く。
今日は、リュンヌ教国の目的について語ろう。彼らの目的は、精霊世界リテリュスの浄化だ。
神話の終わり。黒き民によって、この世界は、汚染されてしまった。
阿修羅王エールデと、息子の混沌魔王による呪詛がもたらしたモノである。
混沌魔王とは、すべての魔王の父だ。奴は、多くの部下を生み出した。
神話の終わりに勃発した戦争を精魔戦争と呼ぶのだが。
この世界規模の戦争で、大地も海も荒廃し、転輪聖王リュンヌも疲弊した。
自らが生み出した白き民たちに、自身の代わりを託したのだ。
即ち、リテリュスの浄化である。
白き民の使命を継承した──奪ったのだが、リュンヌ教国は否定──リュンヌ教国は、浄化を開始。
破魔大祭のはじまりである。
巫女姫の祈りの力で、すべての呪詛や汚染を身体に入れて浄化する。
ただし、一人の人間が浄化できる呪詛と汚染には限界がある。
だから、巫女姫を変えて、浄化していくという壮大な計画だった。
巫女姫は、神の代行者である教皇が、百年に一度、リテリュスに住む女性の中から選ぶのだ。
巫女姫は、修行を積んで、善行を積み上げる。
巫女姫の能力を教皇が判断し、その都度、破魔大祭が行われるのだ。
極秘に行われることもあれば、大々的に執り行われることもある。
教皇からお役御免を貰えれば、巫女姫の役目は終わる。後は、生涯遊楽できるという。
ただし、引退後の巫女姫を見たものは、誰もいない。
✢✢✢
排泄物を食らう動物がいる。彼らは、必死に生きているのだ。
人間たちからは、嫌われているけれど、ユグドーは嫌わない。
甲高い鳴き声が、響く。それこそが、ユグドーにとっての挨拶だった。
暗い地下水道。ユグドーの隠れ家だ。
ここは、大きな街なのだろう。地下水道を作るには、大きな術式がいる。
今までのように、表立って人間と接触することはできない。
ユグドーは、ある漁村を守るために悪魔の力を使ったのだ。
リュンヌ教国が、人間に牙を向いた悪魔を逃すはずがない。
イストワール王国歴851年。
もうすぐ年も終わる。外は、寒い。地下水道は、幾重にも貼られた術式の影響なのか、寒くはない。
ユグドーは、日に何度か、街の様子を確認する。夜になるのを待つのだ。
夜になると、外に出た。
地下水道から出るたびに、錆びた鉄梯子を使うのだが、握るたびに痛みを感じた。
夜の街は、すごく静かだ。青き月と星空は、等しく平等に光を与えてくれる。
夜道も、まるで明け方のように歩けるのだ。
しかし、今の時期は気温も下がる。夜になると、余計に寒くなる。
流石に、どんなに寒くても、北の果てに降るという雪を見たことは一度もない。
裏路地から、表通りに出ても人の姿を見かけることはなかった。
街のいたるところに貼られた小冊子には、破魔大祭が開催される。
と、書かれていた。
破魔大祭のことは、ユグドーも知っている。
リテリュスに、リュンヌ神を呼び戻すための環境づくりのようなものだ。
(確か、もう少しで達成するかもとか……。誰かが言ってた気がする)
ただ、何回目なのかは、分からない。リュンヌ教でも一部の関係者しかしらないのだ。
ユグドーは、ゴミとして捨てられた物を拾って、それを再生させる。
裏路地で、夜にしか開いていない店で売るか、なにかに交換することで生きていた。
ユグドーは、捨てられた物をあさりながらも、これからのことを考えずにはいられない。
リュンヌ教国に敵対することは、この世界を敵に回すことだ。
どこへ逃げても、同じことである。
食堂の前のゴミ箱を、漁る猫と目があった。夜の街を徘徊するものは、人間に嫌われた者たちだ。
ユグドーは、懐からパンを取り出す。その一欠片を猫に差し出すのだった。
猫は、ゴミ箱を漁るのをやめて、パンの欠片を咥えると食堂の軒下に走って隠れる。
「君にあげたんだ。取ったりしないよ……」
ゴミ箱が倒れて、風に転がされていく。転がったゴミを見てみるが、目ぼしいものはなかった。
「ふーん。自分の食い物を他の命に分け与えるなんてね。貧者の一灯の精神だね」
背後から声が聞こえる。
ユグドーの心臓は、大きく跳ね上がる。気配は感じなかった。
いまさら、逃げても無駄だろう。影の長さから察するに、一人ではない。
こんな夜に、この人数だ。追手だろう。
「リュンヌ教国の人? 教門騎士?」
ユグドーは、振り向かずに答えた。
逃げ出したい。でも、逃げ切れなかったら抵抗する体力まで消費してしまう。
「そんな、下っ端じゃないよ。君は、漁村で暴れた悪魔を宿す子か?」
声色からして男だろう。影から察するに、大きな盾を持っている。
重装歩兵だろうか。ならば、教門騎士ではない。雇われの傭兵かもしれない。
冷たい風が、頬を通り抜ける。流れていた汗も凍りそうだ。
「やめて、まだ子供です。シュ……」
子供の声。女の子だ。ユグドーと同じくらいだろう。影を見る。一番小さな影がそれだろうか。
「巫女姫さん。本名はやめてね。聖門長って呼んでくださいよ」
聖門長と名乗る男は、おどけたように言う。まるで、緊張感が感じられない。
ユグドーは、たしかに子供だ。でも、何人もの教門騎士を倒した。重罪人……いや悪魔だ。
油断していい相手ではない。
(セイモンチョウ……。リュンヌ教国でそう呼ばれるのは、リュンヌ教国軍のナンバー2だけ。なら、それに巫女姫……)
ユグドーは、足から力が抜けていく。逃げるなんてとんでもない。抵抗なんて無駄だ。
彼らからすれば、悪魔なんて小物だ。
「頭のいい子だね。安心しな。俺は、リュンヌ教なんて興味ないし、神罰執行対象? 教門の奴らに任せるよ。だから、早く逃げな?」
聖門長が言っていい言葉なのか。騙しているのではないのか。
ユグドーは、思案した。そして、振り向いた。顔を見たかった。その言葉に真意を確かめるためだ。
厳つい大きな白銀の鎧と大盾を持つ男。しかし、それに似合わない優しそうな顔立ち。
これが、聖門長。
聖門長の横に立っている女の子が、巫女姫だろう。
黒系の長い髪の少女。前髪は、眉を隠すほど伸ばしている。白衣と紅袴を身に着けていた。
「食べるものがないのに、自分のものを分けるのは、とても良い行いです。私の名前は、リリアーヌ。あなたは?」
ユグドーは、名乗るべきかを考えた。しかし、名乗らなかったところで、逃げ切れはしない。
自分の中の悪魔を追い出さない限りは。
「僕の名前は、ユグドー。貴女が、リリアーヌ様。リュンヌ教国の巫女姫……」
僕は、リリアーヌの瞳から目が離せなくなった。
年端もいかない女の子が、黒き民の呪詛を、リテリュスの汚染を、浄化するのだろうか。
あんな小さな身体で。これが、リュンヌ教。
「破魔大祭……。が、頑張ってください。あぁ」
ユグドーは、心にもない言葉を残して逃げ出した。逃げながら、情けない。と、自分を責めた。
漁村の人たちの仇を前に意味も理由もない言葉。
ユグドーは、どこにもよらずに地下水道に戻る。聖門長が、後を追ってくることはなかった。
何もない。汚物の川が流れるだけの地下水道を、呆然とした気持ちでながめた。
頭に浮かぶのは、巫女姫リリアーヌの姿だ。自分と変わらない子供が世界を救う。
途方もないことだ。
ユグドーだって、悪魔を心に飼ってこれまで生きてきた。
リリアーヌの生きる目的に比べて、小さく頼りない自分の生きる理由。
欲しい。
声が聞こえた。僕も欲しい。また声が聞こえた。
(生きる理由が欲しい。ただ、逃げ回るんじゃない。この悪魔の力を使って、僕も生きる理由が……)
その夜、ユグドーは眠れなかった。
いつもは、何ともない。地下水道の動物たちの声が、心にざらざらと反響する。
✢
あの小冊子によれば、明日が「破魔大祭」の開催日だ。この街の名前も場所も、分からない。
でも、この街にとってはすごく名誉なことだ。街をあげての祝宴になるだろう。
ここが、イストワール王国なら、ルロワ国王も来るはずだ。
リリアーヌが、どのような奇跡を起こすのだろうか。
見てみたい。ユグドーは、そう思う。会って話をしてみたい。ユグドーは、そう望んだ。
「見に来れば、いいわ。破魔大祭の日は、誰もユグドーさんを捕まえられない」
ここは、地下水道だ。ユグドー以外の人間がいるはずもない。でも、確かに聞こえた。
リリアーヌの声だ。
ユグドーは、後ろを振り返る。横を見る。前を見る。どこにも、リリアーヌの姿はない。
幻聴なのかと、大きく落胆した。そこまで、追い詰められていたのかと。
「ユグドーさん。貴方の前にいるわ。よく見て?」
ユグドーは、首を振った。目の前にいるのは、いつもの汚物を食べる動物だけだ。
「幻聴だと思うのなら、それでもいいわ。貴方と話がしたかった。ユグドーさん、貴方の中にいる悪魔は何者なの?」
汚物を喰らう動物は、瞬きもせずに、ユグドーを見つめる。
金切り声もあげずに。流れる汚物も気にせずに。
「……孤独には、なれてたはずなんだけどね。いいよ。付き合うよ。幻聴さん。悪魔の名前は……」
ユグドーは、悪魔にも人間と同じように、父母がいることなどを話した。
五百年もの間、孤独に耐えた悪魔と友達になったことも。今までのことすべてを。
汚物を喰らう動物は、立ったまま身動きもせずに話を聞いてくれた。
「次は、リリアーヌだよ。あ、いや、巫女姫様の話を聞きたいです」
ユグドーは、自分を叩いて落ち着かせた。
本来、臆病な正確であるはずの汚物を喰らう動物は、ユグドーを見ても逃げ出さない。
「ユグドー。私のことは。リリアーヌでいいわ。同じ年齢だと思う。巫女姫なんて称号だけ。破魔大祭の役目を終えたら、どうなると思う?」
ユグドーの心は、とても穏やかになった。奇怪な声の木霊する陰気で暗い地下水道。
今は、とても明るい平和なリュンヌの住む天道のように感じていたのだ。
「分からないな。でも、リュンヌ教国の法都にある後宮で、幸せに暮らすんじゃないの?」
破魔大祭は、リュンヌ神の悲願だ。それを一歩前に進めた巫女姫は、生涯が約束される。
必要ならば、両親や兄弟すらも呼んで、死ぬまでの贅沢が約束されるという。
「違うわ。この世界の黒き民の呪詛と汚染を背負って、阿修羅王エールデの……。ユグドー、ごめんなさい。もう、話は、出来ないわ。破魔大祭を見に来て、そして……」
汚物を喰らう動物は、生気の戻った目で、ユグドーを睨みつける。
一際甲高い声を上げて、汚物の川の中に飛び込んだ。その汚れた水音で、ユグドーは、我に返った。
「……リリアーヌ。破魔大祭はすべきじゃない。やっぱり、リュンヌ教国のやることは許せないよ」
ユグドーは、地下水道の壁を殴った。考えてみれば、都合のいい話だ。
人間ひとりで、リテリュスの呪詛や汚れを背負うなんて出来るわけがない。
リュンヌ教国は、彼女らを犠牲にして何を果たすつもりなのだろうか。
これ以上、弱いものが踏みつけられるだけの世界にしておけない。
ユグドーは、お腹に手を当てた。そこに悪魔はいない。でも、語りかけた。
(僕は、リュンヌ教国をとめる。リリアーヌを救って見せる。きっと、それが僕の使命なんだ……。そうだろ?)
地下水道に巣食う汚物にまみれた動物の鳴き声が、奥から聞こえてくる。
どこまでも、どこまでも、鳴り響いた。
【ユグドー、決意の咆哮編】完。
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