雨音ASMR

幻典 尋貴

雨音ASMR

 ずっと、何かを忘れている気がしている。昨日の晩御飯はすぐに思い出せるのに、それは一欠片も思い出せない。

 スマホに雨音のプレイリストをランダム再生させて、とりあえず、朝食を食べる。焼いた二枚の食パンに、それぞれいちごジャムとメープルジャムを塗ったもの。デサートは3割引だった4ポットセットのヨーグルト。五つの果物がそれぞれに主張してきて、あまり美味しくなかった。

 使った食器を洗っていて、何か声が聞こえた気がして、一つ思い出す。二日前、久々にこの町であの人を見かけたことが、このモヤモヤのキッカケだ。四年前に高校を卒業して以来、あの東屋に彼女は来ていなかった。五時のあの場所は、とても静かになってしまった。あの人影はきっと、彼女に違いない。それなら、

 ――そうだ、東屋だ。


 時刻は午後5時。天気予報通りの雨が降り、グラウンドの地面はグチャグチャで、新しく買った靴がどんどん汚れていくのを、僕は気にする訳もなかった。

 公共の体育館の横にある東屋には、見覚えのある赤い傘が立てかけてあった。そして、彼女は居た。

 「全く君は、いつも暗い顔をしているね」

 四年ぶりに聴いたその声に、刹那、思い出が蘇る。

高校時代、人間関係や進路で悩んでいた僕を救ってくれた、そんな声。

優しさの中に強さを感じるその声は、まさに彼女自身を表しているようだった。


   ☔︎


 「やぁ、今日もここだったね」

右の方から声がして、僕は瞼を開く。

「それにしても、君はいつも暗い顔をしてるなぁ」

 腕を組んでそう言う三枝先輩に、余計なお世話だと返すこともできたが、そんな勇気は僕にはなかった。

 代わりに、「今日はどうしたんですか」と聞く。「今日も彼氏さんの愚痴ですか」と。

少しだるそうに、ちょっとした嫌味を混ぜてみたが、心臓の鼓動は早くなっていた。そんなことを知らない彼女は、手をブンブンと振りながら違うよぉとは言ったが、片方だけの口角が不自然につり上がっていて、当初はその予定だったことが窺える。僕が怪訝な目を向けると、終いには「うん。多分、違う」などと言い始めた。

 僕はため息をつき、結局先輩の話を聞くことにした。結局、彼氏の愚痴を2時間も聞かされることになった。


 高校の下校時刻、雨が降っていると僕は決まってこの東屋に寄ることにしている。最初はなんとなくだったが、最近ではそういうことになっている。

 東屋に着き、大量の教科書が入ったリュックサックを下ろす。スマホの録音機能をオンにして、風よけのために少し開けたリュックサックの中に入れ、僕自身は静かに雨音を聴く。録音した雨音は、寝る前とか、勉強する時とかに流すことにしている。僕は雨音中毒だった。

 ベンチに座って雨音を聴きながら、雨音に強弱があるのは、雨自体がそうなっているのか、僕の耳がそういう風に聴いているのか、どちらなのだろうか。とか、雨どいから流れてきた水が地面に小さな川を作り出すけれど、そんなにこの水は勢いがあるのか。とか、そんなどうでもいいようなことを考えながら、日々の疲れを洗い流す。

 最近になって、五時になると三枝先輩が来るようになった。雨の日以外にもきているのかは、知らない。

よく考えると、僕は先輩の彼氏の悪い所しか知らないわけだ。変な関係だなと我ながら思う。

 三枝先輩は、僕に会うと必ず「暗い顔をしている」と言う。僕にはその自覚は無いけれど、きっとそうなんだろう。録音した雨音を家で聴くようなやつは、明るい訳がない。

 七時になると、先輩は「また次の雨の日に」と言って帰ってしまう。

 僕も、跳ねる泥で白いスニーカーを存分に汚しながら、反対の方角に帰る。別に汚れたら洗えばいいのだ、そう思っている。


 そうやって何度も雨の日の会話を繰り返し、高校二年の終わり頃、先輩は東京の大学に通うからと言って引っ越して行った。

 “もしかしたら、あの彼氏も一緒なんだろうな”と、なんとなく思ったのを今でも覚えている。


   ☔︎


 「どうして来たの」

 彼女がそう聞いてきたから、僕は3時間前にやっと気づいた、全てのことを告げた。


 いつの間にか雨は上がり、不完全な虹が出ていた。


「さっきのは嘘。今の君は、本当にいい顔をしているよ」

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