広がる世界。閉じていく世界。
壱ノ瀬和実
広がる世界。閉じていく世界。
私がその夢と出会ったのは十三の春だった。
小学校の頃から、放課後に書店に向かうのが毎日の楽しみだった。毎月のお小遣いは千円。毎日書店に通っても本をレジに持って行くのは一度が精々。日々棚に並ぶ本の背表紙を眺めながら、次は何を買おうか、今月は我慢をして来月分のお小遣いと合わせて少し高い本を買おうか、そんなことを考えながら通う書店が私は大好きだった。
小説を買うことが殆どだったが、時には漫画に惹かれることもある。
新刊コーナーに並ぶ漫画を見ていると、面陳列された単行本の中に鮮やかな色使いの表紙を見つけた。手に取ってみると、少年誌で連載されている冒険ファンタジーの第七巻で、帯を見る限りではそれなりに人気のある作品らしい。漫画作品へのアンテナをもう少し敏感にしておくべきだったかなと思いながら、私は手に取った漫画を棚に戻すことをしなかった。
漫画は一冊五百円弱。私の手持ちでは既刊全ては買えない。だけど何故か、私は七巻をレジに持って行く決意を既にしていたのだと思う。
その日、私は迷うことなく一巻と七巻を購入した。こんな中途半端な買い方は初めてだった。
帰宅し、いの一番に漫画を開いたその瞬間から、私の世界は広がった。
あまりに繊細な表現。背景に至るまで一切無駄のない線に、キャラクター造形。ページを繰るごとに広大になっていく世界観。
これまでも漫画は読んできた。だけど、この作品との出会いは私の中で何かを変えた。これまでになかった感情で新鮮だった。
描きたいと、思ってしまったのだ。
それからの私は毎日の書店通いをしなくなった。放課後はすぐに家に帰り、シャーペンでひたすらに漫画を描いていたのだ。専用の道具を買うお小遣いはない。毎月もらえるお金は最新刊に追いつくために使い、紙とペンは有り物で、足りなくなったら母に「勉強道具が足りなくなった」と言って買ってもらった。漫画を描いていることは誰にも話さなかった。見せられるものではないとどこかで感じていたのか、恥ずかしいと思っていたのだ。
中学の三年間は漫画と共にあった。
殆どは模写。あとは、オリジナルの漫画も描いた。きっかけがそうだったというのが大きく、描くのはとにかく冒険漫画。ここじゃないどこかの世界を描くことは私にとってとても難しいことだったが、それ以外を描く自分も想像がつかない。
高校生になったとき、部活案内にアニメ漫画部の名前を見つけたときには心が躍った。
中学では一人で漫画を描くだけだったことを思えば、仲間ができることの頼もしさは想像に難くない。語り合う友達でも、漫画を描くことの悲喜こもごもを共有出来るライバルでもいい。私は真っ先にアニメ漫画部の門戸を叩いた。
小さな部室内。ある日、一人の先輩が言った。
「一年生の子でもし漫画を描いてる人がいるなら教えて欲しいな。文化祭で部誌を発行するんだけど、描ける子には漫画描いてもらってるからさ」
私は想いが込み上げるのをグッと押さえて、誰かが挙手するのを待った。最初の一人になりたくなかったのだ。
一年生の
鞄から自身の原稿を取り出す。コピー用紙に印刷されたそれは、デジタル原稿をプリントアウトしたものらしい。重たかっただろうに、いつでも見せる準備はしていたのだろう。ちゃんと人数分を用意してあって、私の分もあった。
ぱらぱらとページをめくる。さすがはデジタル原稿。スクリーントーンなどなくてもパソコンやタブレットで簡単に陰影が付けられるのだろう。それだけでもかなり本格的に見える。
それは超能力バトルものの作品だった。かなり絵が上手い。とっても読みやすくて、ストーリーも展開も凄く少年誌然としていて、単純ながら凄く面白かった。
数分して、読み終えた先輩が言った。
「始めて何年? 上手だね」
「三年くらいです。デジタルになってからは二年くらいかな」
三年? 私と、同じ?
「へぇ。賞とかは?」
「一次までは何とか」
一次……こんなに出来の良い作品が一次までしか通過していないなんて、とてもじゃないが信じられない。
「そっか。少し荒いところはあるけど、でも三年でこれってかなり凄いと思う! まだまだ伸びるよ」
「ありがとうございます!」
隣の彼女はきゅっと唇と閉じて嬉しそうだった。
「どうかな?」と彼女はこちらに感想を求めてきた。
「うん。凄く上手。憧れちゃうくらい」
「ホント? ありがとう」
その子は満面の笑みで喜びを見せる。
先輩は小さく拍手しながら、
「本当に凄い。これなら即戦力だよ。あ、わたしたちのも読んでもいいからね。そこの部誌にここ数年分の漫画載ってるから」
漫画を持ってきていた子が言った。「あの、早速読んでも良いですか」
「もちろん」
流れに乗るように、私も部誌を一冊手に取った。
愕然とした。私とはまるで違う。私が描いてきた落書き紛いのものとは違った、本当の漫画がそこにはあった。
一冊の部誌には五作品ほどが掲載されていて、下には漫画賞へ応募した際の結果が書かれていた。
一次通過。
二次通過。
落選。
一次通過。
一次通過。
落選。
落選。
指先が、下唇が、瞼が小さく震えていた。
そんなはずはないと思った。
一目見て分かるほどに力の入ったこの作品たちが、まるで誰にも認められていないみたいで恐ろしかった。
「凄いですね、先輩。わたしもこんな風に描けるでしょうか」峰村が言うと、
「すぐ追い抜かれちゃうよ。峰村さん、たぶん練習すればもっと上手くなる」
「はい。頑張ります!」
そう答えられる彼女を、凄いと思った。
同時に、自分が、自分の作品が恥ずかしくなった。
「そういえば君は描いてないの? 漫画」
先輩が私の方を見て言った。
私は引きつった笑いを自覚しながら、
「私は、描いてないです。読む専門で」
嘘を吐いた。
本当のことをいうのが怖かった。
私が言う本当は、私の心を酷く傷つけるような気がした。
「そっか。でも部としては大歓迎だよ。作品について語り合うのも楽しみの一つだし」
「はは」と乾いた笑いをこぼして、それからの私は先輩達の作品を、まともに読むことができなかった。
帰宅して、私は自分がA4コピー紙やノートに描いてきた漫画を読み返した。
恥ずかしくて、辛くて、悔しくて、私はこれまで描いてきた漫画を、漫画とも言えない落書きをくしゃくしゃにした。ゴミ箱に捨てるには量が多すぎて、破って破って、小さくなったそれを見て、涙が止まらなかった。
あの日広がった世界が、これまで私が見ていた景色が、部員達との出会いによって急速に閉じていく感覚だった。
才能がないなんてことは分かっていた。プロになりたいなんて夢のまた夢だった。でも認めたくはなかった。だけどそれは自分の世界で完結していたからこその足掻きだ。自分じゃない誰かの才能と出会い、自分以上に輝く才能を見つけ、それでも大空を羽ばたいていないことが絶望だった。
十三歳の春。私は素晴らしく広大で美しい世界と出会って、かけがえのない夢と出会った。
こんな世界を描きたい。私もこんな世界を――。
そんなの、無理なのだ。分かっていた。分かっていたことを遂に突き付けられた。同世代の才能と自分の才能は天秤に掛けるまでもない。出会ってしまったのだ。自分以上の何かに。
私はこの日、夢にサヨナラを告げた。
部活は辞めなかった。好きな作品について語る日々は欲していたものだったからだ。だけど三年ぶりに、書店通いを再開した。あの日見つけた感動はもう過去のものだ。今はただ、書店の背表紙を眺めるだけ。それでいいと思っている。
高校生になって、お小遣いが二千円になった。
ハードカバーの小説も買うことが出来る。文庫本なら三冊。漫画なら四冊。これ以上ないくらい幸せだ。私の喜びはずっとここにあったし、これからもここに有り続けるだろう。
漫画コーナーの一角に立った。貪るように読み、何度も模写した漫画が、平積みで置かれていた。家の本棚にその本はもうない。どこか奥で眠っているだろう。
その繊細なタッチの表紙が視界に入る度、ズキッと胸が痛んだ。
これが夢を諦めた痛みなのか、それともまだどこかで諦めきれていないからこそなのか。
今の私には分からないままだった。
分からないままでいたいと、心からそう思った。
広がる世界。閉じていく世界。 壱ノ瀬和実 @nagomi-jam
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