ブラインド

棚霧書生

ブラインド

 分厚いカーテンで閉め切った部屋は落ち着く。眼が痛くならないから。

「貴方、そんなに窓辺に寄ったらまた具合が悪くなりますよ」

「今日も世界は暗いなぁ」

「……暗くても大丈夫、私がずっとあなたと一緒にいますから」

「ありがとう、そう言ってくれて嬉しいよ」

 僕の眼は光にとても弱くなってしまっている。まぶたが思うように開かないのはなかなか不便だ。だけど、僕の妻はいつだって美しい。それは顔があまり見えなくなってしまった今だって断言できる。彼女は僕の太陽。だから、本物の太陽はなくたって構わない。


 ある日、僕と妻だけの平穏な生活に日差しのように無粋に差し込んできたのは妙な男だった。

「ハァイ、私はハマノヤ。とある方からの依頼により、君に取り憑いた悪魔を祓うために遥々やってきた王立祓魔師協会のいち祓魔師だよ。よろしく〜」

 ハマノヤと名乗った男は妻が買い物に出かけている間にやってきた。妻が帰ってきたのだと思って、鍵を開けてしまったことを今はとても後悔している。外の光は眩しい、眩しすぎる。眼が痛くて堪らない。

「なんだか知らないけど、帰ってください」

 僕は手のひらで眼を覆いながら、扉を閉めようとした。だが、

「待って、説明くらいさせてよ」

 アポなし来訪者は閉じかけた扉を無理矢理全開にした。なんてことを!

「痛゛い゛ッア゛ギャァ!!」

「おーっと、失礼。こりゃ随分と侵蝕されてるね」

 あまりの激痛に床でのたうち回る僕を心配する素振りすら感じさせず、彼が僕らの棲家に踏み入る足音がした。

「閉めてッ、閉めてくれ!」

「いいですよ、その代わり私の話を聞いてくださいね?」

 僕は一も二もなくうなずく。眼から入ってくる光が痛く辛くて、扉を閉めてくれるなら僕はなんでもよかった。

「改めまして、祓魔師のハマノヤです」

 床に横たわったままの僕の前でハマノヤは胡座をかいた。とても胡散臭い奴だ、話を聞く価値なんてきっとない。けど今は……仕事をしていないから時間もあるし、暇つぶしに少しだけなら。

「……ナナハシだ。どうしても話したいというなら手短に頼む、さっきので頭がジンジンするんだ」

「オーケー。では結論から言いますね、ナナハシさんが陽の下に出られないほど目が痛むのは悪魔が憑いているからです! なので、今すぐに悪魔を祓いましょう!」

「最初に言っておくが霊感商法ならお断りだ。どこから聞きつけたのか知らないが僕の眼が悪くなったのは病気かなにかだ、悪魔の仕業じゃない」

「おや、素人のナナハシさんがどうしてそう断言できるのかな。私は祓魔師、対悪魔に関してのプロですよ?」

「それは……」

 あれ? 僕はどうして眼が悪くなってしまったんだったか。病気だとは思っているが、病院は遠方にあるから行くか迷っているうちに悪化して結局なんの診断も受けられていない……。祓魔師協会が悪魔憑き診断をセントラルパークで定期開催してるのも知っている、だが、こちらも足を運んでいない。でも僕は一度も眼の異常が悪魔によって引き起こされたものだとは思いもしなかった。なんだか気分が悪い……、なにか忘れているような、大事なことを見落としているような。

 僕が床にへばったまま考えているとハマノヤがわざわざ体勢を倒して僕の顔を覗き込んでくる。

「なにか心当たりがありました?」

「……ないよ。悪魔につけ入られるような心の弱さを僕は持ち合わせていない」

「でも、自分の中でなにかが引っかかっているでしょ。思い出してよ。“カラーマジシャン”との異名まで取った天才画家ナナハシさん。あなたはどうして絵を描くのをやめた?」

 ハマノヤにカラーマジシャンと呼ばれた瞬間、眼球の奥がズキンとした。床に頬を擦りつけ、体を猫のように丸める。絵の具の匂いがする。昔、床に落とした絵の具の匂いが。恐る恐る目を開き、指の隙間から絵の具を見ようとした。色を見たい、と久しぶりに思っていた。が、そのとき、トントントン、と家の扉がノックされた。今度こそ妻が帰ってきたのだろう。早く迎え入れあげないと。今開けるよ、と言って僕は立ち上がり、眼球を保護するため目元を再び手で覆い隠す。

「ナナハシさん。本当に覚えていないんですか」

 扉の前でハマノヤが仁王立ちしているようだ。扉に伸ばしたはずの僕の手がハマノヤにぶつかる。

「邪魔だ。退いてくれ、アンタがそこにいると妻が入れないだろう」

「奥さんを深く愛していたんですね。では、最後にこれだけ聞かせてください。ナナハシさんはもう二度と絵を描かないのかい?」

「眼がこれじゃあ……、色を売りにしてた僕の作風は……」

「絵を描かない理由は本当にそれ? 筆を動かせば絵は描けますよ。あなたが筆を握らない理由は」

 ハマノヤが言い終わる前に扉が開く。あぁ、妻が帰ってきた。私の妻が帰ってきた。一緒にいてくれると彼女は言ったのだから当然だ。

 開いた扉の隙間から光が部屋に入ってくる。僕の眼にも。ジクジクジクジクジクジク、痛い痛い痛い痛い、眼が燃えるようだ。体の力が抜けた僕はその場に膝をついてしまう。

「あぁ貴方、駄目じゃないの光を見たら!」

 妻が駆け寄ってきて、僕を抱きしめてくれる。僕は妻の胸に顔を埋めて、光から逃げることができた。夫婦は助け合うものだけれど、僕ばかりが助けられていて少し格好悪い。だけど、今だけはこうして妻に甘えることを許してほしかった。

「ナナハシさんはもう気づいているでしょう? 潮時ですよ、そろそろ祓わないと悪魔に生命力を喰われ尽くして死にますよ」

「なにを言っているのか、わからない」

「まだしらばっくれます? 早くその女から離れてください」

「悪魔なんかじゃない!!」

 彼女は僕の妻だ。僕の最愛の人だ。祓魔師の出る幕などない、僕が戯曲家ならここでこの物語のピリオドを打つ。

「ふふふ……、どこのどなたか存じませんがお帰り頂けますか。主人はこの通り体調が悪いのでお客さまとはお話ができないようです」

「本当に悪魔ってのは趣味が悪いよね。ナナハシさん、聞いて。私はあなたの命を守るために今から悪魔を祓う。だけど、あなたが悪魔に執着すればするほど、こいつは強い力を得てしまう。祓い切るためにはナナハシさんが悪魔を拒絶することが重要なんだ」

「嫌だッ、違う違う違う! 妻は悪魔じゃない!」

「まったく……。私は心優しい祓魔師だからナナハシさんが了承しようがしまいが悪魔祓いを頑張るけど、死んでも恨まないでね!」

 なにか祝詞のようなものを唱え始めるハマノヤ。妻が聞いたこともないような声で呻いている。その声は、まるで人間ではなかった。苦しむ妻を放ってはおけない。僕は妻を守るためにハマノヤに飛びかかった。

「ちょっと、まだ詠唱の途中だったんだけど、あなた本当に死ぬつもりなの!?」

「……ハマノヤさん、僕は妻を愛してるんだ」

 僕はハマノヤと激しく揉み合う。

「チッ、目を覚ませ! この落ちぶれ画家!! なにが愛してるだ! あれはあなたが愛していた人間じゃない! 妻と魔物の区別もつかないのか、お得意の観察眼はどうした!!」

 ハマノヤが僕を扉に押しつける。と、その拍子にガコンッと蝶番が吹っ飛んだ。扉を背にしていた僕は後ろ向きに倒れていく。ああっ……、まずい、外はまずい、外には太陽がッ、光があるッ!

 ジュワァ、眼が溶かされているのではないかと思うほどの熱が眼球で爆裂する。涙が溢れて止まらない。痛い痛い痛い痛い痛いッ!! どうしてこんなに痛い!! 太陽が憎い、憎い、憎い!

「あ゛あ゛あ゛ぁ゛ッ!!」

 太陽は僕に思い出させる。昔、彼女が僕に言った「貴方の絵、お陽さまみたいに暖かい感じがして好きよ」って言葉。それがどんなに嬉しかったか。僕はバカだったからその言葉を真に受けてたくさんたくさん絵を描いた。彼女に見てもらいたかったから、全部、全部、僕の描くものすべてを。

「アリサ……、どうして君は僕を残して死んでしまったんだい?」

 僕は全部思い出した。いや、思い出してしまった。僕の最愛の妻、アリサはすでにこの世にいないことを。

「奥さんはナナハシさんの絵が好きだったんでしょ。ならまた描いてあげればいいじゃない。きっと天国から鑑賞してくれるよ」

 僕は泣きながら何度も首を縦に振っていた。筆を持とう。絵を描こう。自然とそう思えたのはいつぶりだろうか。

「さぁ、終幕だよ。“陽の祝福のもと愛する者たちにぬくもりと幸せを、光はすべてを明るく照らし出す”さようなら、地獄へ御帰り【太陽を嫌うものブラインド】よ!!」

 僕に取り憑いていた悪魔はこうして無事祓われた。祓魔師、ハマノヤの活躍によって。

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