第四章「希望」②

 全く力が入らない。

 傷だらけの体からは到に痛みなんて遠ざかり、痺れと火照りが重くのしかかる。

 頬に触れる砂の冷たい感触が、やけに心地良い。

 瞼が重い。眠ってしまいたい。

 でも、まだここで意識を飛ばすわけにはいかない。

 上体を起こそうと腕と腹に力を込める。

 ふるふると震えるだけで力が乗らない。

 棒きれのように動かない膝を何とか立たせて力を込めても、同様に震えるだけ。

 その震えが、他人事のように体を通り抜けていく。


「もうやめておきなさい。これ以上は、本当に殺してしまうわ」


「……」


 うるせぇ。とか、そんな悪態を吐きたかったんだと思う。実際には、僅かに口元を動かしただけなんだろう。

 イリスの微かに漏れたため息が夜風に乗って、やけに鋭敏になった俺の耳に届いた。

 サク、サク、と、砂を踏む音が俺の横を通り過ぎていく。

 行かせない。

 ガロードには抜かれてしまったけど。

 せめて、イリスだけは……。

 渾身の力で寝返りをうって腕を伸ばし、彼女の足首を掴んだ。


「きゃっ」


 間抜けな声を上げてイリスが倒れる。


「離しなさい」


「……」


 もう、俺に抗う力なんてない。イリスもそれを分かっているはず。

 それなのに、彼女は俺の手を振り払おうとしない。

 旋毛つむじに視線を感じる。


「あの子に〝砂漠の女神〟の正体は教えたの?」


「……ぁ……だ」


 まだ。

 そう伝えたいのに声が出ない。

 しかし、イリスは意を汲み取ったようで、また小さなため息が聞こえた。


「さっさと教えてあげれば、あんなふうに悲しむことないのに」


 そう言って、イリスは立ち上がり、


「……なに? あれ」


 何かに驚愕した。


「……ガロードの気配もない。まさか、やられたの?」


「……」


 確かに、途方もない大きな力を感じる。

 それは、例えるならば迷宮世界を支配する魔人のような。

 しかし、迷宮の中を見守る魔人のそれとは違い、この大きな力はこの世界を飲み込もうとしているというか、乗っ取ろうとしているというか。

 とにかく、このまま放っておいたらただ事では済まない。そう感じさせる禍々しく危険な気配を纏っている。

 力を振り絞って視線を向ければ、遙か前方に異形が居た。

 腕や足など、人の部位がめちゃくちゃに組み合わさってできた、漆黒の大樹。

 幹にはいくつもの人面が浮かび上がっている。

 この距離で視認できるのは幹に浮かび上がっている大きめなものだけだが、おそらく枝にもビッシリと人面が浮かび上がっていることだろう。

 枝先から何か黒い粘液のようなものが垂れ落ち、その粘液が砂漠を――その空間自体を喰らっているように見える。

 既に大樹の周りには大穴が広がっており、その穴もこちらにずるずると広がってきている。


「もう、私の手には負えない」


 そう独り言ちると、イリスは踵を返し、俺にそっと手を翳した。

 イリスの魔力が俺の体へと流れ込んでくる。

 その凄まじい魔力量に、満身創痍だった体がみるみるうちに癒えていった。


「これで動けるでしょ? あなたも逃げなさい、ロア。

 ここはじきに、あの闇に飲み込まれる」


「いや、俺は……」


 立ち上がり、貧血に揺れる体をぐっと踏ん張らせる。


「アレを何とかしてくるよ」


 俺の答えが分かっていたのだろう、姉はただ黙って聞いていた。


「それでさ、頼みがあるんだけど」


「なに?」


「もし俺が……いや、俺達がアレを何とかできたらさ、ムーランから手を引いてくれないか?」


 見やれば、青白い閃光が大樹の周りで瞬いている。

 アーシャだ。


「そんなこと、私が聞き入れられる立場だと思う?」


「分かんないけど、俺には姉さんしかいないんだ。頼むよ」


 しばしの、沈黙。

 後に「ずるいわね」とこぼし、


「一度手を引くわ。その後のことはどうなるか、約束はできない」


 魔導師らしい解答を、姉は返した。


「ありがとう」


 そう礼を言ったあと、


「必ず助けるよ、姉さん」


 俺はそう宣言した。


「……期待しないで待ってるわ」


 寂しそうに微笑みながら、姉は浮かび上がった。

 すでに炎の壁から解放された砂漠は、深い闇に包まれている。

 瞬く星の中に消えていく姉をしばし見送り、俺は真言を唱え、相棒の元へと飛んだ。


◆◇◆


 ナターシャを飲み込んだ闇が、メキメキと音を立てて伸び広がっていく。

 闇から生えた手足がガッチリと互いを掴み合い、樹木のように枝分かれし、上へ上へと伸びていく。

 枝先からボタボタと闇が垂れ、落ちた闇が砂を喰らって広がっていく。

 このままでは、この砂漠ムーランが……みんなの"家"が闇に食い尽くされてしまう。


「させない」


 ナターシャが笑って生きたこの世界を、ナターシャが守った世界を、ナターシャの手で壊させるなんて。

 そんなこと、絶対にさせない。

 闇が浸食していく砂漠の一点に、紅い光がキラリと輝く。

 砂の上に突き立った二振りの大振りな半月刀――ナターシャの愛刀“紅月”だ。

 助けを求めるように……否、「私を使え」というように、柄の中央に埋め込まれた宝玉が爛々と輝いている。

光翼スパルナ】を顕現させて飛び、砂が傾いて危うく剣が闇に飲み込まれようとしているところを急いで掻っ攫った。


「ナターシャ、今助けるね」


 ナターシャが埋まっているはずの、大樹の幹に向かって真っ直ぐ飛ぶ。

 滴り落ちてくる闇に気を付ければ、大樹の傍まではすぐに到達することができた。

 艶めく漆黒の幹に“紅月”を突き立てる――刹那。

 ボコり、と音を立てて、樹の内側から人面が浮かび上がった。

 ――ナターシャ!?

 安らかに眠るナターシャの額に“紅月”の切っ先が迫る。

 寸でのところでもう一振りの刀身を滑り込ませ、それを受け止める。

“紅月”の甲高い悲鳴が蠢く闇の中で響き渡った。

 その瞬間、ナターシャの眼がまるで人形のように開き、


「けきゃきゃきゃきゃきゃきゃ――――!」


 彼女が絶対しないような歪で不気味な笑い声を響かせた。

 ずるり、と首から下を幹から生やし、ナターシャの形をした何かが私の腕を掴む。


「あー、しゃ♡」


 ナターシャとは似ても似つかない、くぐもった不気味な声。

 全身を駆け抜ける悪寒のままに、空いている左の剣で異形の腕を叩き斬る。


「いーーーーーひひひひ!ひたい!いたい!いたたたいひたい!!」


 嘲笑のような、呪詛のような、不気味な声を喚き散らし、異形は幹の中へと沈んだ。

 それと入れ替わるように無数の触手が伸び、私に襲いかかる。


「アーシャ!」


 触手を斬り捨てながら空へと逃げ延びたところに、よく知る声。


「ロア!」


 私はその男の名を呼んだ。

 ボロボロの服に、傷だらけの体。

 ボサボサになったダークグレイの髪が、砂埃を纏っていっそう白く見える。

 いつもコイツは、私を助けてくれる。

 傷だらけになりながら、ボロボロになりながら。

 空色の瞳に、流星の輝きを宿して。


 私が振り返ると、彼は眼を見開いて私の胸を凝視した。

 何故だか顔がひどく赤い。

 そのあと自分の外套をビリビリと破き、


「丸見えなんだよ、胸隠せ!」


 何度か折りながらそう言って、私に押し付けた。


「何をそんなに慌ててるんだ?」


「慌ててねぇ! いいから巻け!」


 目を背けながら必死に告げる彼に訝しがりながらも、私は言われたとおりに外套を胸に巻いた。

 

「状況は?」


 一つ咳払いをして、ロアは訊ねた。


「あの木みたいな奴の中に、ナターシャが埋まってる」


「彼女は、生きてたのか?」


「分からない。でもナターシャは、消え去ってなんかない」


 魔人に肉体を奪われながらも、私を助けてくれたあの瞳を思い出す。

 あの瞳に宿っていたのは、間違いなくナターシャだ。


「だから、絶対助けたい。力を貸してくれ、ロア」


「あぁ」


 無数の殺意が下から伸び上がってくる。

 大樹の枝先に実った蕾から種のようなものが射出され、私達に襲いかかる。


「《ファラズ》《燃焼イグネッサ》!」


 ロアの放った炎の矢が迎え撃ち、種を燃やす。

 しかし、燃え爆ぜた種から闇が飛び出し、空ごと私達を抉ろうと牙を剥いた。

 闇が広がり、空も大地も食い尽くしていく。

 ナターシャを閉じ込めている大樹へと繋がる空間が、どんどん失われていく。


「急ぐぞ、アーシャ。早くしないと、アレに近付くことすらできなくなる」

「あぁ!」


 今なお広がっていく闇の浸食を掻い潜り、私達は黒い大樹へと向かった。

 闇の横を通る度、【光翼】が安定しない。

 推力が一気に弱くなって消えかかる。

 ぐらりと体が揺らぐところにあの種が飛んできた。

 刺激すると破裂して闇を生む。弾くわけにいかない。

 何とか体を捻って躱すも、掠った種が破裂して闇を生み、皮膚を削ぐ。


「くぅ!」


 腕を全部削がれる前に完全に【光翼】を消し、落下して無理矢理その場から離れる。


「アーシャ!」


 ロアの真言マルナが響き、優しい浮遊感が私を包んだ。


「大丈夫か?」


 大きく回り込むようにして闇を回避しながら、ロアが寄り添う。


「あぁ、平気だ。ただ、なんでか上手く飛べないんだ」


「どうやらあの闇が周りの精霊アルマを吸い込んでいるらしい。

 それで【光翼】の精霊も吸われてるんだ。

 アレの間を突っ切っていくのは得策じゃない。下から回り込むぞ」


 そうして私達は地上へと降りる。

 砂漠を覆い尽くす漆黒の闇は、穴というよりも沼や湖を彷彿とさせる。

 おそらくこの闇にも、近づきすぎると精霊を吸われると見て間違いない。

 ある程度のところまで降りて、そのまま大樹を目指して滑空する。

 ロアの提案は正しかった。

 少し下に引っ張られるような感覚はあるものの、上から闇を避けながら進んでいたときとは打って変わって、【光翼】は安定して力を発揮している。

 それだけではなく、枝部より下を進むことによって、種攻撃が雨のように下へと降り注ぐようになり、避ければ勝手に地面の闇へと落ちていく。おかげで、行く手を阻む闇の侵攻がほとんどなくなった。


「これならいけそうだな」


 並走するロアが安堵の息を漏らす。


「あぁ、このまま一気に行くぞ」


 そう意気込んで加速しようとした、その時だった。

 地面にたゆたう闇の海から、何かが猛スピードで突き上がってきた。

 木だ。

 私達が目指す大樹ほどの大きさではないが、漆黒の木が闇の中から無数に生え、私達を刺し貫こうと枝を伸ばしてくる。

 更に、その枝を伝って漆黒分身ダークアバターの大群が襲いかかってきた。


「ちぃ!」


 両腕を剣に変えて襲いかかる漆黒分身を“紅月”で迎え撃つ。

 魔人になったナターシャが召喚した奴と同様、剣を弾く事はできても体を斬り裂ことができない。

 ロアも苦戦を強いられている。

 不規則に伸びる枝の刺突と漆黒分身の剣撃。さらに、降り注いだ種が枝にぶつかって闇を広げていく。

 それを避け、あるいは受け流しながら懸命に進んでいくも、どんどん増えていく敵の猛攻に、私達の足は完全に止まってしまった。

 闇の侵攻が進んだことでまた【光翼】が不安定になり、枝の上を走りながら進むしかない。

 だが枝の上には無数の漆黒分身が待ち構えていて、それらをいちいち相手にしないと進路が開けない。

 そうしてもたついている内に、闇が広がって大樹への道がどんどん閉ざされていく。

 すぐ後ろで、ロアの荒い息遣いが聞こえる。

 後方からも迫る敵を魔法と棍で蹴散らしてくれているが、その数の多さに相当消耗しているようだ。


「くそ……」


 気持ちばかりが逸る。


「諦めて……たまるか!」


 浅い傷で済む攻撃は敢えて受け、強引に押し通る。


「バカ、無茶するな!」

「無茶しなくちゃ、いつまでも進めない!」


 漆黒分身を振り払って一歩進んだその刹那、こめかみに枝の先端が触れる感覚。貫かれるより早く仰け反って躱す。

 しかし――

 その切っ先が両眼を掠った。

 じわり、と視界が赤と痛みで埋め尽くされていく。

 なにも、見えない。


「アーシャ!」


 ロアの声がやけに遠くなっていく。

 落下していく感覚が、胸の鼓動をどんどん煽る。

 足を滑らせた。

 そう気付くまでに、なんだかものすごく、時間がかかった。

  

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