第四章「希望」①
「アッハッハッハッハ! アーッハッハッハッハ……‼」
炎獄と化した夜の砂漠に、魔人の高笑いが響く。
死屍累々と転がる獣人達の亡骸。それを燃やす炎が、闇に溶け込むように青い魔人の肌を妖しく照り返す。
未だ止まることなく増え続ける漆黒の
私が操る炎の屍も、恐れ慄きながら刃を振るう獣人達も、その尽くが分身を破壊するに至らない。
どうやらあの分身は、任意のもの以外の接触を完全に遮断できるようだ。
「なに? これは、一体どうなってるの?」
私の口からそう漏れたのは、眼下に広がる凄惨な光景のせいではない。
〝裏孵〟った魔人の様子が、私が知っているそれとは明らかに違うのだ。
現在、組織が〝裏孵り〟に成功した魔人は三体。その魔人はそれぞれ〝裏孵〟した
今回であれば
しかし現状、魔人は私の言うことに従うどころか、耳すら貸さずに殺戮を楽しんでいる。
このような有様になった理由など、たった一つしかない。
「クカカカカ! どうやら〝裏孵〟ったみたいだな」
姿形は見えないが、その存在を背後に感じる。大方、風にでもなって私が慌てふためく様子を見に来たのだろう。
「私に何をさせたの、ガロード?」
努めて平静を装って、私は静かに訊ねた。
「何って、お望み通り〝砂漠の女神〟を〝裏孵〟してやったんだが……どうやら暴走しているようだな」
「白々しい。最初からこうさせるのが目的だったんでしょ?」
私が問うと、ガロードは愉快げにくつくつと笑った。
「『己れがこの世界の全てを知り、お前達を意のままに動かそうとしている』と考えているなら、とんだ買いかぶりだ。
確かにお前より多少は物事を知っているだろうが、己れは全知全能ではない」
「じゃあこれも、予期せぬ出来事だと?」
「あぁ。予想よりもだいぶ面白いことになっている」
一体、どんな予想をしていたのやら。
「捕らえるのだろ? 手伝うぞ」
「捕まえたところで、どうにかなるの?」
「さぁ。アリアなら、どうにかできるのではないか?」
「気安くあの御方の名を気安く呼ばないで」
「クカカ、それはそれは悪かったな」
そう言って茶化すと、ガロードはその姿を現した。
肉体を得たガロードが、魔人目掛けて真っ直ぐに落下していく。
振り回されるのは癪だけど、確かにあの方ならどうにかできそうな気がする。
お手を煩わせてしまうのは心苦しいけれど、戦力として使えるならば、捕獲した方がいいのは確かだ。
「あとは……」
獣人共が逃げていく中、魔人と対峙する人物が二人。
一人はあの光の翼を持つ
親代わりと慕うあの獣人が変わり果てた姿になって、完全に消沈している。
そしてもう一人は、
砂の上に座り込む迷宮覇者の少女に向かって、真っ直ぐに走っていく。
「ごめんね、ロア」
こちらにも、背負っているものがあるの。
一つだけため息を吐き、私も魔人目掛けて下降した。
◆◇◆
「まともに戦うな! 逃げろ!!」
迫る刃を棍で弾き飛ばしながら、俺は周囲に叫んだ。
「ロロ、みんなを連れて逃げろ! ここは俺が引き受ける」
『分かった』
おそらく、この分身をいくら相手にしても無駄だ。
この惨状を止めるには、分身を生み出している本体――魔人と化したナターシャをどうにかするしかない。
そして、それをどうにかできるのは……否、どうにかすべき人物は、たった一人しかいない。
ロロが獣人達を煽動してこの場を離れていくのを横目にしながら、俺はアーシャを探した。
……いた。
砂漠の真ん中でへたり込んだ、白く小さな少女の背中。
刃を振り上げ群がる
「あのバカ!」
《
「おい! 立て、アーシャ!」
真後ろでどやしても、反応がない。
「おい!」
俺はアーシャを横抱きにかかえて飛んだ。
一瞬前まで俺達がいた砂丘を分身が刃を振るって抉る。
「ナターシャが……私はナターシャを、救えなかった」
ようやく、アーシャが声を漏らした。
その声は嗚咽で震え、あまりにも弱々しかった。
「……まだだ」
涙に溺れる紺碧の瞳。それを真っ直ぐに見詰め、俺は続けた。
「まだ終わっちゃいない。
おそらく、ナターシャは今も自分を乗っ取ろうとしている魔人と戦っている」
何の確証もなかった。
ただ何となく、そう思っただけだった。
魔人の中の魔力循環が、たまに不整脈のようにブレること。
そしてその瞬間、高笑いを続ける魔人の表情が苦悶に歪むこと。
魔人の出した分身の動きが、獣人に対して少し躊躇している瞬間があること。
それは俺が「まだ希望が残されている」と思いたいからそう見えるだけなのかもしれない。
それでも俺は、アーシャに残された「希望」を伝えずにはいられなかった。
「まだ間に合うかもしれない。
いや、逆か。ここを逃したら、本当に手遅れになる。だから……」
地上で爆発音が轟き、砂柱が上がった。
見れば、ガロードとナターシャが既に戦っている。
蛮刀を振るうガロードに対して、漆黒の分身を剣に変えて応戦するナターシャ。
先ほどの砂柱は、ガロードが作った隙に乗じてイリスが放ったもののようだ。
二人はどうやらナターシャを捕まえようとしている。
「あの二人に連れて行かれたら、それこそ終わりだ。
いくぞ、アーシャ。ナターシャを助けに!」
◆◇◆
不思議な男だ。
初めて会った時から、そう思っていた。
獣人みたいに爪や牙があるわけではなく、かと言って身体能力が特別優れているわけでもない。
なのにこいつは、巨大な大砂蟲に一人で挑みに来た。
「死ぬわけにはいかなかった」とその時は言っていたけど、そうだとして、自分の体より何百倍もデカい相手にわざわざ立ち向かったりするだろうか。
私はあの時、死を覚悟した。
それだけじゃない。
一瞬――たった一瞬だけど、大砂蟲を近くにいる誰かになすりつけようとした。
ナターシャを救うために、死ぬわけにはいかない。そう思ったから。
あのまま彼が――ロアが現れてくれなかったら、私はとんでもない過ちをしでかしていたかもしれない。
ロアは、すごい奴だ。
たった一人で、ずっと家族を探して旅をしていたという。
自分を見失いそうになるほどのこの悲しみを、ずっと胸に抱きながら。
己を傷付けながらも、諦めず。ずっと、ずっと……。
彼みたいに強くなりたいと、そう思った。
そして、今も。
彼はいつも私を助け、私に勇気をくれる。
私はそれに応えたい。
漆黒の剣を握り締め、変わり果てた姿になった母。
その前に、私は立った。
後ろでは凄まじい爆音が轟き続けている。
ロアが、イリスとガロードの介入を防いでくれているのだ。
「そう長くは保たない」と彼は言っていた。
私一人だけだったら、こうやって向き合うことすらできなかったこの時間を、ロアが身を挺して造り出してくれた。
彼が私に――私のために掴み取った
無駄にするわけには、いかない。
「ナターシャ」
私は呼びかける。
「なにしてるの」
いつも通りに。
私はナターシャに、いつもそう訊ねていた。
ナターシャのことが知りたかったから。
ナターシャみたいになりたかったから。
目の前のナターシャが、ナターシャじゃない笑みを浮かべて襲いかかってきた。
力に任せた、太くずさんな太刀筋。
私は“
「どうしたの? いつもと全然違うよ」
努めて、私は笑顔で訊ねた。
泣きべそをかいた私に、ナターシャがそうしてくれたように。
嵐のように凄まじい斬撃が、次々に襲いかかる。
黒くて、重くて、恐い。
それを受けて躱し続けるも、その重さに弾かれて、薄皮を何度も斬り裂かれる。
痛い。
ナターシャの剣は、そんな剣じゃなかった。
透明で、軽くて、細くて、でも力強くて、速い。
全部が一本に繋がる線のように美しかった。
こんな乱暴な剣に負けてほしくない。
だから、
「はっ!」
お腹の底から気持ちを乗せる。ナターシャが教えてくれたことだ。
気持ちが乗った剣は、何よりも強く美しいのだと。
〝紅月〟が漆黒の剣を真っ二つに叩き折る。
「剣が違うから、いつも通りに振れないの?
ナターシャでも、そういうことがあるんだね。……はい」
私が“紅月”を差し出すと、ナターシャは折れた刀身で私の手の甲を切った。
赤い血が白い砂の上に滴り落ちる。
気付けば、子どもの獣人に引っ掻かれたような斬り傷で全身が真っ赤になっていた。
「……戦ってくれてるんだね、ナターシャ」
彼女の技量なら、たとえ折れた刃でも、無防備になった私の手首など簡単に斬り落とせる。
体に付けられたいくつもの傷も、本来なら致命傷になっていてもおかしくない。
ナターシャは、魔人の中で生きている。
私達を殺すまいと、必死になって戦ってくれている。
助けてあげなきゃ。
漆黒の柄をいつまでも握っている青い手をはたき、空になったその手に、私はそっと〝紅月〟の黄金の柄を握らせた。
「踊ろう、ナターシャ」
一閃。
瞬時にナターシャが〝紅月〟を薙ぎ払う。
私はそれを舞の基礎型「三日月」で躱した。
反らせた胸の上を“紅月”が夜風を切って滑る。
二の太刀が真上から振り下ろされる。
「三日月」で砂に付いた手をそのまま軸にして、「車輪」で後方に跳ぶ。
私の股を通って〝紅月〟がしぶきを上げて砂に埋まった。
「息を合わせて、息遣いと刃の硬さが伝わるくらい、あたしとあんたがひとつになるくらい、肌と刃を合わせて」
初めて二人で踊る舞いの練習をしたとき、ものすごい勢いで伸びるナターシャの剣が恐くて、私は振りを大きくして逃げてしまっていた。
「恐くないよ。あたしの目を見て、息の音を聞いて。あたしもアーシャの目を見て、息の音を聞いてるから。大丈夫」
そう教えてもらったら、心なしか、剣がゆっくりになって恐くなくなった。
あの時ナターシャは私を褒めてくれたけど、今なら分かるよ。わざと剣の速度を落としてくれたんだよね。
私が剣を必要以上に恐がらないように。私が剣舞を嫌いにならないように。
だから今はね、全然恐くないよ。
その目に「私」が映ってなくても、息遣いがいつもと違っても。
ナターシャの剣は、全部分かるよ。
瞬時に間合いを詰めたナターシャが鋭い突きを放つ。
「落葉」でそれをヒラリ躱すと、今度は足を払おうと蹴りが
跳躍してそれを躱したところに、振り上げられた“紅月”が下から伸び上がってきた。
私はその刀身に寄り添うようにして手を付いた。
掌が刃にすっと乗る感覚を楽しむ。
剣の軌道に自分の重心を乗せ、刃が自分を斬るより先に、ふわりと離れる。
剣が私の体を投げ出したように、跳躍した体が更に夜天に近付いた。
私は丸くなってくるくると回転し、砂の一粒の上に立つように、親指から静かに着地した。
「着地は砂粒の上に」これも、ナターシャが教えてくれたことだ。
ナターシャが呆けた顔で私を見詰めている。
「全部、ナターシャが教えてくれたんだよ」
剣舞はこんなに楽しいって。
心をドキドキさせるって。
心と心を繋ぐって。
「だから、ねぇ……」
青い頬に伝う涙を、赤い炎が銀色に照らす。
それを見た途端、それまで押さえ込んでいた想いが溢れ出した。
「元に戻ってよ! また一緒に旅をしようよ! また一緒に踊ってよ!
ねぇ、お母さん‼」
刹那――無数の鳥が一斉に羽ばたくような音と共に、風が吹き荒れた。
その風は黄金の砂粒を乗せ、ナターシャの周りで逆巻いている。
風に乗った砂粒から、歌のような、笑っているような声。
生命の息吹――
これが、ロアが見ている「精霊と共にある世界」の姿なのだろうか。
だとしたら、私は、ずっと彼らが私と共に在ることを知っている。
生まれる前からずっと、姿は見えなくとも、この温もりと畏れが私を取り巻いていたことを知っている。
黄金の砂粒――精霊が、ナターシャの体の中に次々と入り込んでいく。
黄金の渦がナターシャの体を包んでいくと同時に、赤黒く禍々しい何かがナターシャから飛び出していく。
その何かが飛び出していくごとに、ナターシャの肌の色が元の褐色へと戻っていく。
「……やった?」
私の想いが通じたの?
ナターシャは、元に戻るの?
元に戻ったナターシャは、どうなるの?
次から次へと湧いてくる疑問で頭がいっぱいになる。
「まさか、既に出来ていたか。王たる器――“依代”よ」
私の首を、背後から何者かが掴んだ。
鋭く伸びた爪が食い込んで、血が喉元を伝う。
緑色の指――ガロードか。
奴が後ろでどんな顔をしているかは分からない。
だが、その声は今までの奴から聞いたことがないような、身が竦むほどの、凄まじい執念のようなものが感じられた。
恐い。動けない。
地面の上に叩き付けられ、馬乗りに体を押さえ込まれる。
身に付けていた胸当てを毟り取られ、露わになった胸を奴が鷲掴む。
夜闇の中、奴がどんな顔をしているか分からない。
恐い。
奴の爪が、胸に刺さる――
「ア、タシノ娘ニィ……触レルな‼」
斑色の肌をしたナターシャが、ガロードに飛び付いて私から引き剥がした。
「邪魔をするな。己がこの瞬間を、どれだけ待ち望んだと思っている⁉」
「アーシャ、ニ、触れルナ! アタシ、娘……マモル‼」
戦う二人の周りに漆黒の
幾千本もの漆黒の剣が二人を包み――ナターシャごとガロードを刺し貫いた。
「ぐぶぅうううう……‼」
誰も傷付けられなかったガロードが、初めて苦しそうに血を吐いた。
その緑色の皮膚が、漆黒に染まっているように見える。
「イカセナイ……アタシガ……アーシャヲォ……マモルンダ‼」
紫色の血を流しながら、ナターシャが咆えた。
「ぐ、ぐぉお……ぐがぁあああああああああ‼‼」
肌に黒が侵蝕するたび、ガロードの悲鳴が木霊する。
「娘ェ……否、アーシャ‼ 覚えたぞ……己れは必ず、お前を手に入れる‼
この身が何度朽ちようとも、お前を手に入れるまでェ……何度でも……!」
言葉の途中で、ガロードの体が消えた。
黄金の粒に代わったガロードが、風に流され消えていく。
恐怖でずっと釘付けになっていた体が、自由を取り戻す。
「……ナターシャ!」
のたうち回って苦しむ母に、私はすぐさま駆け寄った。
「あ……ガ……あ゙ァ……ッ」
漆黒の剣が溶け、液状の闇になって彼女の体に入り込んでいく。
彼女を包み込もうと精霊も飛び交っているが、その尽くが闇が喰われていく。
「ナターシャ! ナターシャ……!」
一心不乱に手を伸ばす。
微かに触れた闇が私の肌を抉る。
噴き上がる血が、闇に飲み込まれる。
構わず闇の渦の中心にいるナターシャに手を伸ばす。
「来……ルナ……‼ アーシャ……‼」
胸元に伸びた手が、私を突き飛ばした。
「逃……ゲテ、アタ、シが……アタシじゃ……ナくなル……前ニ……!」
その瞳から涙を零し――ナターシャは闇に飲み込まれた。
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