縄と絹

北緒りお

縄と絹

 よく知っている道ではある。しかし、日が沈みきってしまうと、さすがに漆黒の中を泳ぐように歩かなければならなかった。

 男は好き好んでこの時間に外出していたわけではない。不意の用にふりまわされ、いやいやながらこんな時間に外出しなければならなかった。あせる気持ちを押さえつつ、それでいて周りに最大限の気配りをして、何者かが出てきたらすぐに逃げる心づもりだけはしていた。

 ただ、そこまで気を付けていても、牛車の落とし物を踏むまで気づけず、粘着質の感触を足の裏にまんべんなく感じてから、がっかりとした気持ちで地面に足を擦り付けるような有り様では、たかが知れているのであった。

 この辺り一帯では追い剥ぎが横行し、金品を持っていかれるだけならばまだいいのだが、最近聞いた話では、男であれば膾のように刃で刻まれ、女であれば散々慰みものにされたあげく、飽きられると顔では誰だかわからないぐらいに傷めつけられ、河原に打ち捨てられていたのだという。

 男は、その話を聞いてからというもの、よっぽどの用がない限りは寄り合いにも顔を出さず、日が傾き始めると戸締まりを入念にし、何があろうと夜が明けるまで寝ていることにしていた。

 今日は運が悪いことに、寺の持ち回りがめぐってきてしまい、こういう時には用が重なるもので、寺までの間にある兄の家で雑用に駆り出されていた。急いで用事を済ませて帰路についたのだが、道も半ばまで行かないうちに日は完全に隠れてしまったのだった。

 人里ではあるが、屋敷のやたらと長い壁で囲まれた道は、どこにも隠れるところがなく、かといって暗がりではどこに誰かがいても気づけず、腹わたにむずむずとした不安と焦燥が走り続けていたのだった。

 壁に沿い歩き続けていたのだが、自分の足音の速さとは違う、小石がぶつかり合う重く小さい跳打音がした。早足で歩いていたのだが、天敵にあった小動物のように反応し、そちらに目をむけた。もちろん見えるわけではないが、用心深く、もし、そちらに何かあったらすぐに逆方向に逃げようと腰を低くし、どうとでも飛び出せるように足に力をためた。

 音のした方向からは、小石の上を柔らかなかたまりが転がるような音と、かすかに、赤子の声に似た、か細くなにかに媚びているような甘さのある鳴き声がした。白猫だったのだろう、目をこらしてみるとぼんやりと猫らしき影が見え、大きな影に小さな影がしきりにじゃれついているような動きが感じられた。

 そうとわかるまでにすっかり肝を冷やし、腹のなかには心地の悪い塊がころがり、体温をなくした鼻の先は鋳型にいれた砂のようにホロホロと崩れていってしまうような感覚と、それとは逆に頬を緊張の帯が締め付けていた。

 だが、猫だとわかると、汗までもが凍ってしまったようなおののきが消え、普段と同じように栄養が行き渡り、ナスを思わせる下膨れ気味の輪郭に若干の血の気が戻ったのである。

 全身にびっしりとかいた汗が、夜風に吹かれて冷えるのを待つまでもなく、帰路への足取りを戻そうと足を動かしたときである。さっきまでなかったであろう生暖かい壁にぶつかった。顔をあげようとするより先に、低く濁った声の「にゃあ」という声でそれが人だとわかったのであった。

 逃げようにも肩におかれた分厚い手にわしづかみにされ、手のひらの熱が体の芯まで握られているような恐怖を感じさせたのである。なによりも、腰が抜けてしまい立っているのがやっとなのであった。

 顔に雷が落ちたような衝撃が走ると、手まりのように地面に顔が打ち付けられ、砂利の冷たさがおでこといい唇といい、顔中から温度を奪った。

 こちらがなにかを言おうとする間もなく、棒かなにかで背や腕を剛打され、無意識に顔をかばおうと頭を抱えると、脛や腰骨の辺りを執拗に打ち続けた。どれぐらいの時間がたったかわからないが、全身に夕立を受けたように棒が降り注ぎ、もはや打たれていない所はないだろうと思えるほどであった。

さっきと同じように低くつぶれた声が聞こえた。

「声を出さずにおとなしくしてろ、持ってるものと着ているものを置いていけば殺しはしない」

 とにかくこの暴力の嵐から逃げたい一心で、懐にいれていた若干の金から着物、果ては草履に至るまでを声を殺し、しかし抑えきれない嗚咽の中差し出した。差し出したといっても、立ち上がることができず、地面の上を転がりながら裸になり脱いだものをまとめたにすぎないのだが。

 男のそばに立ち、出されたものを足で体のそばに寄せると「よし、そのまま黙って立ち去れば命は助けてやろう」と言い放った。その言葉を聞くと、四足になり生まれたばかりの子牛のようによろめきながら逃げようとした。そのとき、男の秘所をめがけ、下駄履きの足が蹴りあげたのであった。

 痛さのあまり声にならない悲鳴、それこそ牛蛙が鳴いている最中に踏みつけられたような声を発すると、両手で蹴られたところを抱え込み動けなくなってしまったのだった。

 ぼそっと「残念だなあ、せっかく生かして逃がしてやろうとしたのに」と残念そうにない抑揚で呟き、腰にさしていた鉈を振り上げた。

 数時間が過ぎ、朝日のなか、清々しい空気とどこまでも青く広がる空の下、役人たちは野次馬と格闘していた。

 道の真ん中に転がっている裸の男は、全身に刀傷、それも鋭い刃物ではなく力任せに叩ききられたような傷があった。切られている最中に自分を守ろうとしたのか、手をあげた拍子に叩き切られたのであろう、体から離れたところに指が転がっていたのである。

 役人たちは検分もそこそこに、この犠牲者をいち早く処理してしまうことに頭が一杯であった。事故でも何でもいいので、この事件を無かったことにしてしまいたかったのである。

 役人たちには共通の反省があった。

 あるときのこと、似たようにボロ切れのようになって果てている男があった。

 犯人を見つけるのは簡単ではなかったが、疑わしき人間は数人見つかった。ある若手の役人が、その中でも特に疑わしき人間に対し事件のあった時間に何をしていたのか聞きにいったのである。

 役人は、手入れがほとんどされていない掘っ立て小屋のなかで、寝床にころがる、丸太を思わせるような大男を前にしていた。入った瞬間は真っ暗であり目が慣れるまでなにも見えず、馴染んできた頃に見えた男に少しばかり怯んだのだが、もとより正義感のみでこの仕事をしている彼はそれを表に出さず、なおかつ冷静な口ぶりで事件のあったその時間のことを聞いたのである。

 聞かれたことに対して一言「寝てた」と言うと、相変わらず顔をこちらに向けないまま寝返りをうった。

 なげやりな返事にたいして、役人としての念入れのつもりで、追い打ちの質問をしたのであったが、言い終わらないうちに寝床の上で頭だけこっちに向けると、じっとこちらを睨み付けていたのである。

 昼間から寝ているくせに赤黒く日焼けした顔は、ボサボサの髪に伸び放題の髭が顔を覆い、杉玉に目鼻をつけたようなものなのだが、こちらをにらむ目は野犬のそれに近く、凍ったような殺意が眼差しから伝わってきた。

 じっとこちらを見つめると、はじめの答えと同じように「寝てた」と答え、めんどくさそうにまた寝床に頭を据えたのである。

 その夜のこと、一件の火事があった。

 若き役人の家で火が起こり、生まれてからまだ、四季を一周していないような赤子も犠牲になったのである。

 この火事を検分したときに役人たちは縮み上がったのであった。

 焼け跡から見つけ出された奥方と子供は、そのような状態になっているにも関わらず刀傷のような怪我のあとが見てとれた。

 一家の主である若き役人は家のなかではなく、庭に生えている桐の木に縛り付けられた姿でみつかった。

 体は執拗に殴られたのか全身が腫れ上がり、縄が身体中の至るところに食い込んでいた。顔だけは殴られなかったのかほぼ無傷であり、足元に広がっている血だまりのなかに転がっていたのである。

 同僚は検分も早々に、早く眠らせてやろうと体を横たえさせ、そして頭も一緒にしてやろうとしたのである。

 不自然に二重に噛ませられている猿ぐつわをはずすと、口に当たるところに小さな手が二つ押し込められていた。それを見た同僚は胃から込み上げてくるものを押さえきれず、庭の端にかけて行くと内容物を込み上げてくるままぶちまけていたのだった。

 出るものもなくなり一息つくと頭を抱え震え始め、そのまま仕事が遂行できなくなったのである。その後、しばらく床につき、風の噂では発作的に震え動けなくなることがいまだにあるのだという。

 その現場を知っている役人は学んだのである、捕らえてはいけないやつがいて、そいつに嫌疑の目を向けるだけですべてを失うということを。

 朝あった事件は人々の噂の種にはなるものの、生活の流れは変わらず、夕方の市はその日仕入れた品物をすべて売ってしまおうと店じまい前の賑わいで包まれていた。

 丸太のように大きい風体は市場の雑踏のなかですら目立ち、このあたりの人間であれば、その風貌からか話題にすればすぐに分かる程度には知られていたのではあるが、店主の間では特に悪い噂はなかった。言葉は荒く、声も大きい、よく食べよく飲むが、金離れがよく、気持ちよく付き合える客だったからである。

 いつものように夕食後の腹ごなしのつもりか市場にならぶ品々を冷やかして回り、酒やツマミにするのであろう干し肉などを手にしていた。

 店じまいをするような時間にこの辺りを走る車はあまり無いのだが、人混みを掻き分けるように、とは言え、牛車であるから迅速にというわけにはいかないのだが、それでも急いでいるつもりで走り抜けようとしていた。

 ちょうど店主との無駄話をしていたこの男の前を通りがかったとき、風の拍子かスダレがめくり上がり中の様子が見えたのである。強い夕日がちょうど正面から照らすようになり、桜色の着物に包まれた、まっすぐな長い髪の下にある女の顔が目に入ったのである。

 男にはどのようにその出会いを言葉にしていいのかわからなかったが、心のなかに、今までの日常にあった真冬の獣道のようなざらざらとした風景に、春の風が吹いたのである。

 その心の変容に、どうしていいのかわからず、阿呆のように佇んでしまったのであった。

 男が持ち合わせている感情は、力と一緒になり表に出るか、もしくは酒でぼやけた思考力のなかで垣間見る劣情ぐらいなのであった。

 冬の朝に見かけた氷柱のように透明で、それでいて暖かく優しい感情など感じたことがなかったのである。

 市場で買って帰った酒を浴びるように飲みながらも、頭のなかでは酒のまどろみを完全に押さえ込み、頭の中では夕日のなかで見た娘の顔がいつまでも消えず、別のことを考えようとしても、また娘のことを想い、夜の深い時間が過ぎていったのであった。

 ほとんど寝ることができなかった男は、普段であれば昼過ぎまで寝てそれから表に出るのだが、この日に限りどうすることもできず朝早くから表に出た。

 朝なのである。

 新鮮な陽の光に、世の中のよどみもくすみもすべてが消毒され、高く吸い込まれそうなほどに青い空の下、木々は夜露に濡れ輝いているのである。男の今までの粗野な日常とは違う世界がそこにあっであった。

 男の中にあった柔らかく暖かいものが何だかわからなかったが、この朝の清涼のなかにいたいと思わせるものがあり、目的もなくうろうろと歩いていたのである。

 市場からそう遠くない屋敷が集まった一角にさしかかったとき、門が開き付きの者が牛車を引いて出てきたのである。夕日のなかで見たのと変わらぬ車をじっと見つめ、少しでも中に誰が乗っているか見えないかとじっと見つめていたのである。

 昨日のようにはっきりと見えることはなかったが、かろうじてあった隙間から頬の辺りがかすかに見えたのである。

 男の胸は落ち着きなく暴れまわり、頭のなかは乙女のほほのような桜色の夢想に包まれていたのである。

 酒で焼けすっかり濁ってしまった彼の声で話しかけるのもはばかられるような感情に男自身が驚いていたのである。

 それまでは誰であろうと何が起ころうと目についた奴に声をかけるなどというのは造作もないことで、そこで戸惑うことなどなかったのであった。

 男は牛車のなかにいる娘をもう一目見たい、どうしていいのかわからないがそばにいたいと思い始めるようになった。

 それから男の生活は変わった。酒に浸って過ごす夜はなくなり、呑んだとしてもつぶれるような飲み方はしなくなり、また、昼過ぎ、やもすれば夕方まで寝ていたような生活だったのが朝起きるようになったのである。

 男のなかで、娘に合ったときに心のなかに流れた暖かく清潔な感情が汚れないようにしたのである。

 はじめのうちは、そのような真似事もできたのだが、事ある毎に屋敷の前に出向き、胸をたら鳴らせて待ち続けても、娘をのせた牛車が出てくることもなく、暴力と奪取で生計をたてていた男にとって、それをやめてしまうと食うに困ってしまうのである。

 己の中の矛盾は感じながら、空腹に耐えかね、いつものように真夜中の闇に紛れ込み獲物を待ったのである。

 人が通りかかるが、男が仕事している現場を見つけられにくい、という相反する条件を満たした場所というのはそうはない。

 水田の分水路わきにある道具置き場の影で、ただひたすらじっと蟻地獄のように獲物を待ち構えていたのであった。

 もはや、獲物の大小は構わず、かかってきた獲物をとらえるだけであり、ただただ単純な狩りであった。

 遠くの方から車の音が聞こえ、久しぶりの仕事に大物がかかってくれるとは運が向いているのかと喜んでいた。

 牛車が目の前に通りかかるまで待ち、ちょうど牛が目の前に来たところで手のひらほどの石を牛に投げつけた。痛みに暴れる牛に注意が向いた隙に、付き人を鉈ではらった。

 牛が暴れてるにもかかわらず、なだめている様子がないのを不審に思ったのか、車から顔を出した中年男性をこん棒で殴り、引きずり出した。

 そして、いつもやっているように一通り殴る蹴る、すべてを奪い取ってから殺め、そして、それで仕事は終わった。

 久しぶりの仕事で大きな獲物が得られたことに、今までであれば少しは喜んだのだが、清廉な身になり娘に近づきたいという気持ちがそうはさせなかった。

 朝を待ち、手に入れた金で腹を満たし、一息つく。今での自分とは違う清らかな体に生まれ変わろうとしているのにもかかわらず、変わらない自分にある汚濁をどうやったら追い出せるかに頭を悩ませていたのである。

 市場の外れに腰掛け、呼吸する袋のように何もなくぼんやりと空を眺めていると、見覚えのある牛車が先を急ぐように通り抜けていった。

 確証はなかったが、微かな望み、それもその姿の端でもいいから見たいという想いから、距離を置きつつ、ついていったのである。

 屋敷とは違う方向に走っていった車は、男が見覚えのあるところに差し掛かった。

 ちょうど、夜に仕事した場所である。

 そして、その現場に差し掛かるといつものように役人どもが野次馬を遠ざけていたが、その牛車は少し止められただけで通された。

 現場に散乱した数々を見て車の中から若い女のすすり泣く声がし、野次馬に紛れてその車を凝視していた男の目に、娘の頬が涙で濡れるのが見えたのであった。

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縄と絹 北緒りお @kitaorio

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