狭間
三津凛
第1話
1.
見慣れた最寄駅に電車が滑り込むと、無性に泣きたくなった。就職して初めての盆の帰省だった。ゴールデンウィーク明けから体調を崩して、体重が10キロも減った。ようやく体調が持ち直した頃には連日の暑さにやられて、今度は入浴介助中に熱中症になってしまった。
不意に意識が遠のいて、気がつくと頭から水をぶっかけられていた。水の冷たさが後頭部の鈍い痛みを知覚させ、揺らぐ視界の中でぶつかった先輩の視線は優しさとはかけ離れたものだった。
もうやっていけない。
それだけが鮮明に浮かんで、気がつくと脇を抱えられてびしょ濡れのまま医務室に連れていかれていた。無関心に響く足音が余計に惨めさを増幅させて、私という人間の存在そのものまで埋もれていくようだった。その日はそのまま帰されて、翌日から仕事へ行けなくなった。
焦りや罪悪感というものは不思議となくて、もうあの空間へ行かなくてもいいという奇妙な開放感があった。
滅多に見なくなっていた朝の情報番組をつけっぱなしにして、ぼんやりとカップラーメンをすする。そうしていると、自分の凝り固まった何かがようやく解れて、人間らしい形が戻ってくるような気がする。
元々志望した業界ではなかった。終わりの見えない就活をただ終わらせたくて、大学のキャリアセンターから紹介されたところを取り上えず受け、あっさりと全てが終わった。いや、終わらせたというべきだった。
春から夏休み中に受けたところは全て落ちて、後期が始まる頃になっても、私は一向に内定どころか最終選考まで残れなかった。焦りだけがじりじりと焼けつくように広がっていき、お祈りメールだけが私のGmailの受信ボックスを埋め続けた。締めつけるようなリクルートスーツを着て駅のホームに立つたび、不穏な妄想が脳裏を掠めて、何もかも捨てて逃げ出したい衝動に駆られた。大学へ行けばすでに内定を決めた同級生の些細な仕草から嘲笑の気配を感じて、誰とも馴染めなくなっていた。その全てを断ち切りたくて、やりたくもなかった介護の仕事を選んだ。だから特に思い入れもないままに就職して、潰れた。
当たり前すぎて、呆れてモノも言えない。
ずるずると休んで、休職に入った。ガシャッと切られた受話器の音だけが妙に生々しく残っていた。母には休職に入ってから少ししてメールをした。すぐに電話がかかってきたけれど、母と直接話す気にはなれなくて無視をし続けた。
あっという間にお盆になって、私はようやく母に電話をした。電話口での母は静かに「一度帰ってきなさい」とだけ言った。その語尾もまた、先輩たちの視線と同じように優しさとはかけ離れた乾きを帯びていた。
「いつまで寝てんの、部屋の片付けくらいしなさい」
母の小言で目が覚めた。
薄眼を開けると、母は朝から機嫌が悪くて「ご飯できてるからね」とだけ言って、扉を閉めた。
はあ、と息を吐いてからベッドから抜ける。リビングに出ると、一足先に帰省していた姉は既に朝食を終えてテレビを見ていた。食卓には茶碗と目玉焼が置いてある。
「おはよう」
「ご飯と味噌汁は自分でつぎなさいよ」
姉と母が同時に言う。
私は無言で頷いて、ご飯と味噌汁をついで座る。姉は盆休みにも関わらずパソコンを開いて何かしていた。
実家に帰ったのは昨日の夜だ。遅くまで酒を飲んだ。同じく就職して地元を離れた姉も帰省していて、久し振りに家族が揃ったものの父も母も何故か不機嫌で私は途端に居心地の悪さを感じた。早々に寝る両親を尻目に姉妹で遅くまで起きて、取り溜まっていたドラマを何となく観ながら私たちは互いに離れていた間の話をしていた。姉は私よりも6つ上で、頭も良くて器用に何でもこなしてしまう。競争の激しい証券会社に就職したものの、押し潰されることもなくすでに同期内ではリーダー格の評価らしい。
「で、あんたの方はどうなの?」
姉にはまだ休職していることを言っていない。とはいえ多分母から聞いてはいるだろうと思った。姉は後の言葉は続けず、のんびりテレビ画面を見続けている。
「……お母さんから聞いてるでしょ。今休職してんの」
「まあ、聞いてたけどさ」
「私には合わなかったみたい」
言いながら、先輩たちの冷たい視線を思い起こした。表立って悪口言われたこともないし、仕事そのものも丁寧に教えてはくれた。けれどマルチタスクが当たり前で要領良くこなすことが求められる介護の仕事はどうにも肌に合っていないようだった。何度も同じことを聞き、教えられ、それでも使いものにならない私に、一人また一人と表情が消えていった。
そこからは早かった。
悪いのは私に違いなかった。
「勤務もシフト制でしょ。体の方がついていけなくて」
後付けのような言い訳がすらりと口から出た。
「介護でしょ。大変よね」
姉は心から言っているようだった。
それでも、その中にほんの僅かな上からの視線が含まれているような気がした。やけに切り上がって見える口角から、そんな風に邪推してしまう自分が嫌だった。思えばこんな風にして、大学の同級生ともうまくいかなくなったのだ。私を見る誰もが私を見下し、馬鹿にしているような気がしてならない。開き直れるほどプライドは捨てきれず、自分から繋がりを捨てて、今では誰からも連絡が来ることはない。
「もう、辞めるかもしんない」
知らず知らずに口が開いて、最後の一言が出た。姉は黙って私を見た。多分その視線にはなんの悪意もなく、ただ妹としての私が映っているだけなのだと思う。
それでも、多分この人には一生私の辛さなんか理解できないのだろうと直感した。
私と姉はあまりにも違いすぎる。
「まあさ、あんたの人生だからね。身体壊しても何もならないし、まだやり直しもきくよ」
するすると紡がれる言葉に、私は胸が騒つくのを感じた。不安でも、怒りでもなく、それは不思議な感覚だった。
「そうだといいけど。とにかくもう働きたくないだけ」
このままいけば、辞めることは確定だった。両親、特に母が噛みつくことは目に見えていてそれだけが憂鬱だった。姉は視線を上げて、静かに言う。
「……でもさ、お父さんとお母さんには今は言わない方がいいんじゃない?特にお母さんには」
うん、と私も頷く。
姉がやっと笑って、私も笑った。
帰省中は両親には辞める意思を伝えず、辞表を出してから告げた。母は予想外に「そう」とだけ言って、電話を切った。姉が何かそれとなく伝えていたのかもしれない。
受話器を置く音がやけに重く響いて、私の手の中にいつまでもじくじくと残るようだった。呆気なく全てが終わって、なにか巨大な疲労感がゼラチンのように私を覆っていた。母との電話が終わると、途端に周囲が無音になる。それはそのまま私の孤独の比例数だった。眠気を感じて、敷きっぱなしの薄い布団に横になる。全くの無音はどこか水底に沈んでいくときの不安を思わせることに気がつく。それは死への序曲であることを、本能的に知っているからこそ避けたがる。私は何も見ないようにして、全ての思考をやめる。
足を伸ばすと、これまで縮こまっていた何かが同じだけ引き伸ばされるような気がした。それでようやく呼吸が整う気がして、不思議な心地よさが胸に残った。
実家の母から電話があったのは仕事を辞めてからしばらくしてからだった。
「あんた、これからどうするつもり」
のっけから詰問口調でぶつけられて、私は久しぶりに鳩尾のあたりがたぎるような怒りを覚える。思えば両親にとっての娘は姉だけで、私はコブのような存在だったに違いない。私は何かにつけて不器用で要領も悪く、それをリカバリーするだけの根気もなく、努力を続けることも嫌いだった。姉はその正反対で、両親は常に姉の方ばかり見ていたような気がする。母は特に私と姉とを比べて、何かと私にきつい。
「アルバイトでも何でもいいからやりなさい。まだそこから正社員で働けるでしょう。あんたは世間知らずだから、またすぐ見つかるなんて思ってるかもしれないけどね……」
私は母の話しを半分聞きながらながら相槌を打つ。折しも新型ウイルスでアルバイトやパートの人手はがくんと減らされていることをこの人は知らないのだろうか。どこの業界も今は人を雇っている場合ではなく、結局こんな状況でも人を欲しているのは私が砂を引っ掛けるようにして辞めた介護くらいだと思う。それも再びやるつもりなど毛頭ない。
母は短大を出てから事務員として3年ほど働いていたが、父との結婚を機に辞めてからは働きに出たことはない。私から見ると、そんな母の方がよほど世間知らずに思えるのはどうしてだろう。
「いつまでも働かずに、ひとり暮らしなんてできるわけないんだから、そこもしっかり考えなさい」
急に母の声が明瞭になって聞こえてきた。私は曖昧に返事をしながら、電話を切った。母の言葉には時折妙な生活感がある。
棚から預金通帳を引っ張り出して、残高を眺める。社会人になって稼いだ額なんてたかが知れていて、学生時代に溜めていたアルバイト代のおかげで3ヶ月ほどは家賃やらなんやらは出せそうだが、そこから先はどうなるのか私にも分からなかった。0と記された預金残高のインクから、漆黒の闇が広がって私の周りを覆っていくイメージが嫌でも瞼に浮かぶ。
母の言う通り、アルバイトでも何でもやるべきなのだと思う。だがこの身体のどこに力を込めても立ち上がれそうになかった。私は通帳を投げ出した。
2.
「あんたさ、アルバイトかなにか、あれからしてるの?」
姉から電話がかかってきたのは、なけなしの勇気を振り絞って通帳記帳をしてきたタイミングだった。ついに逃れようもない現実が迫ってきた。
真昼の往来に再び踏み出すと、容赦なく自分が断罪されているような気がした。
どうあがいても来月の家賃は払えそうもなく、かといって実家に転がり込むのだけは嫌だった。さすがに日雇いのアルバイトでも何でもしてお金を稼がなければと思い詰めていた頃合いだったのだ。
「……なんもしてない。どうしても、働く気がしないの」
姉はしばらく黙った。
説教でもされるのかと、私も身構えた。
「それってさ、ちょっと精神的にきてんじゃないの。ご飯とか食べてる?夜は寝れてるの?」
姉は慎重に言葉を選んで言った。意外な成り行きに、私は口から出まかせを言う。
「そうなのかな、疲れがずっと取れないって感じはするけど」
「……うつに入りかけてるんじゃなくて?」
姉が小さく言う。
「そういうのって、診断もらわないとダメでしょ」
「病院には行った?」
「行かないよ、お金もないし。とにかく何もしたくないの」
姉はまた黙った。今度こそ私の自堕落さに愛想を尽かしたのだろうか。
「……もう家賃も払えないんじゃない?私のところに来る?1人くらい増えても大丈夫だから、早いとこ来なさいよ」
再びの思いがけない方向に話しが転がって、私は反応するのが遅れる。
「もしもし?聞いてる?」
「う、うん。あの、いいの?」
「いいよ、別に」
私は0に限りなく近い残高を眺めながら、すんでのところで闇が遠ざかっていくのを感じた。真昼の街には影一つない。往来をゆく人は皆忙しなく、一つの目的に向かって突進していくようだった。私だけが何の目的も意味もなく、まるで亡霊のように彷徨っているようで、居心地が悪かった。
「じゃあ決まりね。今度の週末にとりあえずあんたのところに行くわ」
姉は随分前から計画していたことのように言い切った。私は頷きながら、姉を眩しく思った。この人なら誰よりも堂々と往来を歩けるだろうと思った。ふと目の前を見ると、ぴったりとしたスーツを着たOLが横断歩道の信号が変わるのを待っていた。彼女はその間にも資料に目を落として、余念がない。無駄がなく伸び切った背筋と、すらっとした脚は姉とよく似ているものだった。意味や価値というものは、おそらくこういう類の人から紡がれるもので、私は間違いなく社会の毛細血管から破れ出た老廃物に違いない。信号が変わると同時にその人は顔を上げて、早歩きに遠ざかっていく。私はなるべく縞の白いところだけを踏むようにして歩いた。不恰好な歩き方に、信号待ちの運転手が睨むように私を見ていた。
姉のところに転がり込んでから、私は就活をすることもなく完全にニートになっている。母から時たま電話がかかってくるものの、何を言われても流している。姉のところに転がり込んでいることに眉をひそめている気配はあるものの、どこか安堵しているようだった。それは余計な厄介事を抱え込まなくてすんだときの、冷たい距離を思わせる類のものだった。
姉は毎日本当に忙しいようで、朝は私の起きる前にはすでに出社して、帰ってくるのは終電間際だった。それでも姉は私の分の食事を作り、週末には姉の見つけてきた美味しい店で夕食を食べることが日課になっている。当然支払いは姉だった。
一緒に暮らすようになって気がついたことがある。姉はまるで私を子どものように扱う。そしてやたらと世話を焼きたがる。
「美奈子、ここのミルクティーはとっても美味しいのよ、頼もうか」
今日も日曜日だと言うのに、姉は職場近くに紅茶の美味しい喫茶店ができたからといってわざわざ電車を乗り継いで私を連れ出した。確かにそこは世界中から集めたらしい茶葉がぎっしり並んで往来までいい香りが漂っていた。おまけに人気店らしく、テーブルは幾分間引きされて間隔も離されているものの、いつの間にか遠ざかっていた人の雑踏がほんの微かに感じられる。私はあまりこういうお洒落な空間が得意ではないので無難にアールグレイを注文した。姉は店員と顔見知りらしく随分と親しげに会話をしながら注文をしていた。姉はフルーツティーを頼んでいたが、小さなガラスのポットの中にはごろごろと果物が浮かんでいる。それは一向に減らないまま姉の前にあった。それなのに姉は思い出したようにミルクティーを注文しようと言った。
「そんなに飲めないよ」
「大丈夫よ、スコーンも頼もうか。あんたが仕事を辞めるって言った時ね、少し安心したのよ。だって、げっそりしてたじゃない。元々ストレスがかかると痩せるタイプだったけど、あれは過去最高じゃない?」
体重は姉と暮らすようになって戻ってきたはずだ。でも姉のいうことも間違いではない。過去に大学受験の時にも痩せてしまったが、今回はそれ以上の減り具合だった。
だが今では姉の手首の細さの方が、よほど頼りなく思える。
「もう大丈夫だよ、そろそろバイトもしないと、いい加減お母さんがうるさくて」
「ほっとけばいいのよ。あの人たちは世間体が第一だから……」
姉がやや諦めたように呟く。フルーツティーをすすって、店員を呼び止め、ミルクティーとスコーンまで注文する。その後で姉は日経新聞に目を落とした。
忙しない動作の中にも無駄がない。それはアイロンを掛けたての、まだほんのり温かさの残るシャツのようだと眩しく思う。この人は私の自慢の姉で、完璧な人だと学生時代から信じきっていた。それは今でも一向に揺らぐことはない。けれどもここまで生活を共にしていると、ピッタリと重なることのない、どこか触れられない領域があることに私は気がついた。それがこの人の一番柔らかく弱い部分なのだという妙な予感があった。
そういえば、と思い出す。先週珍しく明け方に目が覚めて、なんとなくキッチンを覗くと、姉がもう起きていて朝食を作りながら弁当を詰めていた。料理を手際よくするのにもある程度の知性が必要であることに、私は自分がひとり暮らしをするようになったようやく気がついた。自分には到底無理だと早々に悟って、私はもっぱらコンビニ弁当やインスタントで食事を済ませるようになっていた。
姉の背中は隙がない。その張り詰めた緊張が波のようにじわじわと私の元にも押し寄せるようで、そっと後退る。姉の端正な横顔は銀色に照らされたキッチンによく映えて、姉の手料理を待つべきなのは私ではないような気がする。薄らと肩甲骨の盛り上がった背中を眺めていると、息苦しさのようなものが込み上げてきた。それはそのまま姉自身が日々感じているであろうものだと直感的に思った。そのとき、ふと姉が振り向いて、驚いて小さく声を上げた。
「何してるの」
「ちょっと目が覚めて」
「もう、びっくりするじゃない……」
「姉ちゃんさ、私のご飯なんか作んなくていいよ。インスタントでいいし」
「でもあんたお金もないし、どうすんのよ」
もっともなことを言われて私は詰まる。
「ついでに作ってるんだから、いいのよ」
痛々しいまでの献身さに、私は妙にざわざわとする。この献身を一身に受けるべきなのは私ではない、という確信が生まれた。
ひとり暮らしをするにはやや広い部屋に、姉はどうして住んでいるのだろう。本当は別の誰かと暮らすつもりだったのではないだろうか。姉はもしかするとその相手と結婚を考えたりもしていたのかもしれない。
相手の痕跡は跡形もない。それは単なる邪推なのかもしれないけれど、姉のような華やかな人が身内と週末を過ごすのも場違いな気がした。
「お待たせしましたー」
夢想が突然破られて、ミルクティーとスコーンが運ばれてきた。姉が明るい歓声を出す。
私はその様子を見ながら、なにか物悲しいような複雑な気分になった。
姉のところに居候して半年ほど経った頃、姉から買い物を頼まれて、私は久しぶりに駅前まで出かけた。姉の買うものの値段をそこで初めて知る。当然、財布は姉から強引に握らされたものだ。私では手を出さないような上質なものと値段に、私は改めて姉と私との階級の差を感じた。帰りに本屋へ寄って、なんとなく雑誌をめくっていると、肩を叩かれてびっくりとする。
「お前さ、美奈子だろ?」
煙草の匂いがふわっとして、無意識のうちに眉をひそめる。
「ほら、やっぱり」
まともに目を合わせてみると、それは大学時代の同級生だった。無精髭を生やして、髪も脂っぽい。学生時代から女癖の悪さで評判の男で、何人かの女の子たちは露骨に彼を避けていたことを思い出す。私はつかず離れずでろくに挨拶をした覚えもなかった。けれども目は二重で大きくてノリもいいから彼のことを好きな女の子も割といたのではないかと思う。
「熊澤?久しぶり。あんたってこっちにいたんだっけ?」
「いや、辞めたんだわ、仕事」
「ふうん」
「お前は?平日休みの仕事でもしてんの?」
「私も辞めたの、仕事」
「まじ?」
「うん」
私は話しながら歩く。
熊澤は私をじろじろと眺めて、後ろから着いてきた。
「ここで会ったのも縁だしさ、飯でも食わねえ?」
ねちっこい口振りと煙草の匂いに思わず顔をしかめる。振り返りながら言ってやる。
「私今ほんとに金ないの」
「馬鹿、そんなの奢ってやるよ」
馴れ馴れしく肩を組むと、熊澤は品定めするような目つきをまたする。
「無職同士、積もる話でもしようや」
大学時代にそれほど仲の良いわけでもなかったのに、こんなことで関係ができるなんて分からないな、と思った。
熊澤の話しは大半が辞めた会社の上司の悪口で、あまり面白いものでもなかったけれど、久しぶりに姉以外との関わりに、何かが溶けて行くような錯覚を覚えた。熊澤は目敏くそれを捉えて、図々しく私の中に入り込んでくる。
気がつくと隣に座っていて、馴れ馴れしく太腿に手を置いていた。
「ほんとにな、やったらんねぇよな。お前、アルバイトかなんかしてんの?」
振り払うこともできたけれど、それをしない方がいいような気がして、知らないふりをする。その分だけアルコールが進んで、目の前がふらふらとした。熊澤が間近まで迫ってきて、文字通り食われるのにそう時間は掛からない予感の中で、「ちょっと休みたいんだけど」と呟いていた。
「俺んち来いよ」
熊澤がにやにやしながら囁いた。
熊澤の煙草臭い胸を押しやって、時計を見る。日付けはとっくに変わって終電もない。帰りは始発に乗って行くしかなさそうだった。朝帰りなんて姉の家に転がり込んではじめてだった。姉からの着信がいくつかあった。それだけが唯一のまとまりをもった現実として迫ってくる。だがそれを眺めても私は体を起こすことができず、怠い指先で「友達と飲んじゃって、終電に間に合わなかったから、始発で帰る」と打って送った。
なんでこんなことになったのか、よく分からない。身体を丸めて、なるべく熊澤に触れないようにする。ふと読みさしの文庫本が目に入って手に取った。栞が挟まれて、意地悪な思いでそれを引き抜く。ゴッホの星月夜が印刷されたプラスチック製のそれは、嫌味なほど綺麗な栞だった。どちらかといえばむさくるしい類の熊澤には似つかわしくないようなものだった。文庫本は話題のベストセラーで、なんとなく読み始めると意外に面白かった。
「それ面白い?」
急に隣から声がして、私は思わず文庫本を投げ出した。
「落とすなよー」
「ごめん、ていうか、驚かさないでよ」
熊澤はやれやれといった体で文庫本を拾い上げた。
「これって、あんたの?」
「ううん、彼女が忘れていったやつ」
「取りに来ないの?」
「もう別れたし」
私は改めて栞を眺める。
確かに熊澤にしては似つかわしくないものだった。どんな女と付き合っていたのだろうと考えて、それはどこまでもぼんやりとした姿しか思い浮かびそうもない。
「安心した?」
「は?」
「俺、今フリーだよ」
私は熊澤を無視して文庫本を再び繰る。ぺたぺたと太腿に生暖かいものが触れて、最初とは違って、ざわざわと嫌悪感が這い上がってくる。
「私もあんたも無職同士だよ、変なこと考えないで、これっきりだよ」
言いながら、あまりの無意味さに苦いものが広がっていく。
アルコールの抜けた頭は先ほどと違って、妙に冴えているような気がする。
「うーん、俺は真面目なつもりだったんだけど」
ちっとも重くない口調で熊澤は言う。こんな男と付き合っていた女もおんなじくらい軽薄だったのかもしれない。ベストセラーを半分も読み終わらないまま、男の家に置いて帰るような女だ。私も人のことは言えないけれど、熊澤にひっついてしまうような女は結局大切にはされないような要素を持っているのかもしれない。ふと姉のことが頭に浮かんで、あんなに完璧な人でも振ってしまう男がいることが腹立だしいような、哀しいような気がした。
「疲れてるから、触らないで」
熊澤は無視してべたべたとする。朝までずるずるとするつもりなのか、私はその汗ばんだ体温の高さにうんざりとした。
「せめてシャワー浴びてからして」
身体を押しやりながら言うと、熊澤はニヤっと笑ってベッドから降りる。
「お前も後から来いよ」
私は頷いて、熊澤がバスルームに消えるのを確認した。ここで離れなければ本当に朝まであの男に好きなようにされそうだった。
ふと胸に不快な痛みを感じて薄明かりの中で見下ろすと、歪なキスマークがあった。身体のあちこちに熊澤の痕跡がなすり付けられていると思うと、言いようのない怒りのようなものが指先まで充填されていく。それは私自身の馬鹿さが招いたものでも、ただ一方向に熊澤に向かってゆく。手早く服を着て、テーブルの上に置かれたままの熊澤の財布を開く。無造作に札を何枚か抜き出して、足音を立てないように玄関まで行くと鍵を開けた。熊澤が水音の合間から何か叫んでいるような気がしたが、そのまま振り返らず私は全速力で駆け出した。
ちょうど流しのタクシーが走っていて、躊躇せず手を上げる。そのまま乗り込んで、遠ざかって行く景色を私は他人事のように眺めた。スマホには姉からのメールしか表示されていなかった。熊澤の連絡先をそのまま消して、「今から帰る」と姉に送った。
3.
私が起きたのは昼過ぎで、顔を合わせても姉は表情一つ変えなかった。それがかえって不自然で、そこに無言の怒りを見るようだった。
「ごめんね、昨日」
「何かあったの」
姉がこちらを見て言う。
私は一瞬だけ、嘘をついた方がいいのか迷った。姉は目だけをこちらに向けながら、私の前に味噌汁とご飯を並べた。それは実家で見たものと同じなはずだけれど、なにか別物のように豊かな湯気をもわもわとさせている。私はそれを見て、大きなものを諦めた。言い訳をするとか、体面を保つとか、多分私が姉の中にいる私でいるための必要な努力の一切を……。
姉の目はガラス細工のように表面が滑らかで、冷たく濡れているように見える。
「大学時代の男友達と会って、飲んだの」
「……始発で帰ってくるって言ってたのに、結局タクシーで帰ってきたじゃない、大丈夫だったの?」
「……ごめん、お金はちゃんと返すから」
「それは別にいいんだけど」
姉が言い淀んで、私を見る。何かを憐れむような目だった。多分私の目は何も見ていない。そこには姉がそのまま反射をしているだけだ。張り詰めたような空気が、無性に働いていた頃のあの空間を思い起こさせた。全く違う風景なのに、磨かれた鏡や水垢一つないシンクや壁の絵までが私を見下ろし、憐れんでいるような錯覚を覚えた。姉がそれらの集合体のように見えて、その後ろに居ないはずの両親の姿が見えた。何かが切れて、私は気がつくと大声を出していた。
「本当私は馬鹿なの!お姉ちゃんも分かってるでしょ!男とやったの!相手も私と同じようないい加減で嫌なやつ!プライドだけ高くて何もできない、ただの馬鹿!そいつに朝までずるずるされそうになったから、面倒になって帰ってきたの!私はお姉ちゃんに大切にされるような人間じゃないの!お姉ちゃんだって、私を他の誰かの代わりにしてるだけでしょう!もうやめようこんなこと!」
一気に言い切って、私は体が軽くなっているのを感じた。澱んだ空気が発散されていく、朝一番に窓を開け放す感覚を体の内側に感じた。
姉はやや色の失った表情になる。
「本当ね、あんた何やってんの」
声が震えていた。
それでも姉は感情的になる気配はない。そこで初めて私は姉を可哀想な人だと思った。まるで調教された動物のように、この人は露わになることを怖れている。
私はまだ動悸のおさまらない胸を抱え込みながら、この時初めて自分が生きているのだということを実感した。腐りかけの卵、熟れすぎたトマトをまるで壁に投げつけるかのように一思いに姉に投げつけることで、なにかが取り戻されるような錯覚を覚えたのだ。そして、初めて姉を可哀想な人だと思った。
私たちは長いこと睨み合った。姉は黙ったまま、私の言葉を待っているようだった。その様は両親のかもす、あの重い沈黙とよく似ていて、家族という円環からは逃れられないのだと思った。陸に打ち上げられ魚が脳裏に唐突に浮かび、やがてその断末魔の律動が私自身の意味のない行動とシンクロしていく。
「私、やっぱり出ていくわ」
ふと、翳っていた陽が顔を出して穏やかな橙が広がってゆく。
「そう」
姉はその陽を払うようにして後ろを向くと、私を見ずに返事をした。
出て行く、と見栄を切って見せても私には行く当てもなく、結局はあの居心地の悪い実家にしか帰れる場所はない。姉は自室に篭ったまま、出てこない。姉と喧嘩をほとんどしなかったことに初めて気がついた。それが今では、互いに感情の摩擦というものを恐れていたからに過ぎないことにも気がつく。
財布を開けると、熊澤からパクったお札が何枚か雑に挟まっていた。とりあえず今夜はビジネスホテルに泊まって、それから実家に帰ろうと思った。姉に声をかけてから出て行こうかとも思ったけれど、これで一生の別れでもないし、といつもの面倒癖が出てきて、結果黙って行くことにした。
今日もシンクには水垢一つなく、磨かれている。それは姉が守ってきた一つの小さな箱庭なのではないかと思った。そこにいるべきなのはやはり私ではない気がした。姉は自室に篭ったまま、音も立たずにいる。
迷った挙句、メモパッドに「ありがとう。お姉ちゃん」とだけ走り書きを残した。
ドアを閉め、振り返らずふらふらと駅に向かって歩き出した。日曜の夕方ということもあって、平日の夕方とは違う騒めきがあった。あと数時間もすれば憂鬱な月曜日の予感に、往来の人がぐっと少なくなるのだろうと思った。目についたコンビニに入って、もう長いこと口にしていなかったように思えるカップ麺をカゴに入れる。これが、また再び自堕落な生活への第一歩になるのだろうかと、添加物山盛りの弁当群を眺めて思う。その一つを手に取って、躊躇いなく入れていた自分がオーバーラップする。記憶に沈んでいた母の小言と有線放送が微妙に重なり、大学を出るまでに馴染んだ生活が急に迫ってくるのを感じた。その憂鬱さが背中を押して私を歩ませている。
自動ドアの横に、タウンワークが挟んで置いてあるのを見つけた。しばらく迷って、私はそれを手に取った。
狭間 三津凛 @mitsurin12
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