雲の上の存在

緋糸 椎

 航空会社スカイベンチャーは、ローコストキャリアとして一時は多大な人気を博していた。ところが、大手航空会社が航空運賃の大幅な値下げに踏み切ったために、競争力が低下し、赤字に転落した。このままでは破産……経営陣は打開策を探った。その結果、「スカイベンチャーはパイロットが下手くそ」という悪評が世間に蔓延していることを突き止めた。

 そんな不名誉なイメージを払拭すべく、外部の航空会社から評判の良いパイロットを機長にすえ、他のパイロットたちの指導に当たらせることにした。白羽の矢が立ったのは、大手・帝国航空の名パイロット、阿久澤高道あくざわたかみちだった。意外にもヘッドハンティングは難なく成功し、彼はスカイベンチャーのパイロットとなった。

 ところが、を借りてきた結果、従来スタッフの不満が増大した。阿久澤の指導は非常に厳しいだけでなく、自分のやり方以外は認めない頑固な性格であった。それゆえ、阿久澤が機長の時は、そのワンマン・パワハラぶりにクルー全員がピリピリしていた。


 重松空港駐機中の1126便機内で、チーフパーサー・木下優一きのしたゆういちは焦っていた。手荷物の収納作業が手間取っていたのだ。原因は、ある乗客が規定の量を超えて機内に手荷物を持ち込んだことによる。無論、チェックインカウンターでも預けることを勧めていたが……

「これは大事なものだから、手元に置きたいんじゃ!」

 と譲らず、揉めに揉めた。後には別の客が列をなし、待ちくたびれて苛立ちを見せ始めていた。そこで仕方なくグランドスタッフの責任者が折れて、持ち込みを許可したのである。

 ところが運悪く、他の客も多めの荷物を持ち込んでおり、荷物棚はほとんどキャパオーバーだった。空いているスペースに移動させたり、客の不満に対応している内に、出発の時刻が間近に迫った。

「こちらコックピット、キャビンのスタンバイOKですか? 機長が尋ねています」

 副操縦士の声だが、機長の名前を出したということは阿久澤が機嫌悪いことを示している。

「すみません、まもなくOKです」

「まもなくって、後何秒?」

 今度は阿久澤の声だ。木下の全身が震える。

「あと5分以内には……」

「遅いッ! 3分以内だッ!」

 むちゃぶりだ。しかしやるしかない。とはいえやっつけ仕事は危険だ。木下は頭をフル回転して要所要所指示を出し、何とかドアクローズに漕ぎつけたのは3分半後だった。後で小言の1つ2つは喰らうだろうが、何とか第一関門突破。

 少し気持ちに余裕が出来て、ふと窓の外を見る。すると、右主翼が一瞬、キラリと不自然に光った気がした。何か気になる。もう一度目を凝らして、その部分を見る。やはり反射の仕方が不自然だ。

(ひょっとして……氷か?)

 今回1126便に使用されているボーゲン7722機は、昨晩724便として羽田から到着、給油後に屋外で駐機していた。ところが重松市は急激に冷え込み、明け方にはマイナス一度まで気温が低下した。そのため、機体表面は氷で覆われた。当然除氷作業は行われたが、見落としは充分にあり得る。

「業務連絡、右主翼上面に残氷の可能性あり。整備に再点検の依頼をお願いします」

 ところが阿久澤がインカムで怒鳴りつけた。

「私自身、目視で確認している! この押している時に再点検など一体何を考えているんだ! 二度とふざけたことを口にするな!」

 取り付く島もない。ただ、阿久澤のチェックが厳しいことは木下自身知るところで、その阿久澤が大丈夫というのならそうなのだろう。

 やがて1126便はプッシュバックされ、離陸体制に入る。

「V1……VR……V2!」

 機体は滑走路を離れ、ぐんぐん高度を上げていく。ところが、大量の荷物を持ち込みゴネていた客が、シートを外して立ち上がろうとした。それを見た木下があわてて駆けつけた。

「お客様。シートベルト着用サインが消えるまでご着席下さい」

「トイレに行くだけだ。ワシはな、頻尿でトイレが近いんじゃ!」

 言って聞く相手じゃない。木下は逆らわずに注意だけ促した。

「かしこまりました。揺れますので充分お気をつけ……」

 と言いかけた時、機体がガタガタと異様に揺れた。

「な、なんじゃこれは!?」

「心配ありません。乱気流に入ったために機体が不安定になっています」

 と落ち着いて答えたが、木下自身これが通常でないと感じた。

(やはり、主翼上面に氷が残っていたのだ。それが離陸時に剥がれ、エンジンに入ってサージングを起こしたんだ!)

 サージングとは圧縮された空気が吸気側から逆に漏れ出すトラブルで、出力は異常に上下し、場合によってはエンジン損傷につながる。



 コックピットでは、副操縦士の島塚英正が計器を見て叫んだ。

「機長、コンプレッサーストールです!」

「あわてるな、こういう場合はエンジンをアイドリング状態にし、サージングを解消させるのだ」

 そう言って阿久澤はエンジンの出力を下げた。


 木下は嫌な予感がした。

(あの機長、もしかして……)

 どやされるのを覚悟でコックピットに連絡した。

「何度もすみません、機長は当機がAOR(自動推力維持システム)搭載機であることをご存知でしょうか?」

「AOR? それがどうしたというのだ!」

「もしAORが有効なままエンジン出力を下げますと、自動的に推力を回復させようとして、逆に出力を上げてしまいます……」

 と言うが早いか、エンジンがドンという爆発音と共に大量の煙を吐き出した。そして、客室内にも焦げ臭い匂いが立ち込めた。客室内は騒然となる。木下は咄嗟にアナウンスする。

「不時着に備え、安全姿勢を取って下さい」

 他の客室乗務員にも安全姿勢の指導を呼びかけた。うずくまった姿勢だと騒ぎにくいため、騒動を防ぐことにも繋がった。

 木下はコックピットの扉を叩いた。

「開けて下さい、木下です!」

 島塚が扉を開いた。阿久澤は操縦桿を握りしめ、悪戦苦闘している。ところが計器を見ると、思ったより降下が早い。

「機長、どこにつもりですか?」

「日本海しかないだろう」

「日本海ですって? 着くまでに墜落してしまいます!」

「だが、他に選択肢はないんだ。人里の真ん中にでも落とせというのかね!?」

「ちょうどこのまま東南に降下をつづけると、針葉樹林のある雪原があります。僕はクロスカントリーをやっていて、その辺りは良く知っています」

「だめだだめだ、そんな不確かな情報で不時着地点を決めるわけにはいかん!」

 この期に及んでまだそんなことを……しかも島塚副操縦士までどうしょうもないイエスマンだ。自分たちの、そして大勢の乗客の命がかかっているというのに。

 もはや、どんな賭けでもいい。そう思い立った木下は阿久澤の背後から首に腕を回し、締め付けた。

「な、何をする!」

 そして程なく阿久澤は気を失った。そしてその操縦席に木下が座った。島塚が目を丸くする。

「き、木下さん、何やってるんですか!」

「僕は航空大でパイロットの勉強をしていました。だから操縦の心得はあります。もっとも、こんな性格ですからパイロットには不向きだと烙印を押されてしまいましたが……」

 木下は夢中で操縦桿を握りしめた。計器と勘を頼りに、目標の雪原を目指した。そうしてしばらく滑空を続けていると、見覚えのある雪原が目の前に現れた。

「あの針葉樹林に、機体をブチ込みますよ!」

「そ、そんなことしたら、機体がバラバラになりますよ!」

「うまく、正確に真っ直ぐに進入させれば羽だけもぎ取れます」

 島塚には木下の言わんとすることがよくわからなかったが、言われるままにするしかない。「あそこに、森林を真っ二つに分けている道があるでしょう。そこに機首を合わせて着地します。僕では難しいので島塚さんやって下さい」

 そして島塚が操縦を受け継いだ。進入角度が林の道と合った。そして一気に降下した。凄まじい打撃音と衝撃が木下と島塚を襲う。

 機体もかなり損傷したが、木下の思惑通り、左右の主翼が樹々に引っかかり、機体からもぎ取られた。そして機体本体が雪原に滑り込むように着地すると、針葉樹林に残された両翼が爆発した。燃料は主翼に貯められているため、それらを切り離すことで機体本体の爆発を免れたのである。



 幸い乗組員全員救出され、死亡者数はゼロだった。木下の機転で救われたとは言え、航空スタッフにあるまじき行為が問題となり勧告処分、そして自主退職した。

 阿久澤はこの事故がトラウマとなり、二度と飛行機に乗れなくなった。島塚はその後、パイロットとして復帰し、大空を飛んでいる。


 スカイベンチャーを辞めた木下はネット販売の事業を立ち上げ、成功した。そして度々、ビジネスマン向けの講演会に呼ばれた。その壇上で木下はあの事故を引き合いに出し、こう語るのであった。 

「日本の社会では、上の言うことは絶対、生意気言うな、口答えするな、と言われることもあります。ですがそのような体質は、リスクヘッジの妨げに他なりません。……あなたが胸に潜めているその意見、それはもしかしてあなたの会社、ひいてはこの世界を危機から救う情報かもしれませんよ」

 

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