出会いと別れの小さな違い

玄栖佳純

第1話

 いまでも忘れられない出会いがある。


 それは、すこし昔。

 私が高校生だった頃、都内の大学病院に入院していた。


 一週間、チューブをつけられてベッドから動けなかった。その治療が終わり、退院はできなかったが病院内なら動けるようになった。自由になったのだからどこかに行きたかったのだが、どこに行ったらいいかわからないでいた。


 とりあえず、レトロな雰囲気のエレベーターに乗る。ドアが斜めの鉄の格子で、こんな初期な感じのエレベーターがまだ動いているのは手入れが行き届いているのだろう。


 使用頻度がかなり高いのにちゃんと動くエレベーター。

 しかも彼女エレベーターはどこか誇らしげに見えた。


 人の乗り降りが多くて待ち時間も長いのに彼女はそれを感じさせない。乗ると内側から昇降を見ることができて、それだけでも飽きなかった。


 物を大事にしない所は人も大切にしない。

 看護師さんも常に笑顔だし、いい病院に入院できたと思っていた。


 そのエレベーターで1階まで降りるとすぐ近くにその売店はあった。入院患者だけでなく、通院患者も医者も看護師もそのタマゴたちも行ける場所だった。小さいけれど閑散とする時間帯も流れが途切れず客がいる。


 売店の中はパジャマや下着などの入院に必要な物や、健康な医療関係者向けなのかカップ麺やパンなどの食糧やお菓子、授業に必要そうな機器なども含めて、必要最低限と思われる物がところ狭しと並んでいた。


 一週間も入院していれば必要な物はほとんど揃っていて、私はぼんやりと店内を眺めていた。こういう売店はスーパーと比較して高価なのが常だ。すねかじりは値段だけ見て我慢しなければならない。でも聴診器や実験っぽい物も売っていてなかなか楽しめた。


 そして、タオルや雑貨の中に、私の目を惹く物があった。

―— なぜ、ここにぬいぐるみが?


 20センチメートルくらいの、それほど小さくもないぬいぐるみ。それが三体、窓に近くて明るい場所の目立つ棚に並んでいた。

 ピンクの豚と緑のカエルと青いゾウ。三色のパステルカラーのぬいぐるみが、私の目線のちょうどいい所に並んでいる。


 まずピンクの豚。体は桜のような薄いピンクで、手足と鼻と耳が白い。ピンクとの兼ね合いが絶妙。つぶらな瞳も愛くるしい。


 思わず手に取ると、ふんわりぽかぽかした。手にしただけで優しさが伝わってくる。ひっくり返して背中を見ると、小さな白い羽にくるんと丸まる豚のしっぽ。


 私はピンクの豚を棚に戻すことができなくなった。

 値段も高校生のお小遣いで買えなくもない。


 購入を決め、棚の前を去ろうとしたが、ピンクの豚の隣にいた、ぴょこんと飛び出た瞳の緑のカエルが私を呼び留める。耳から声が聴こえたわけではない。しかし、私は呼び止められた。


 恐るおそる振り返ると、緑のカエルは私に微笑みかけてきた。

 置いて行かれる寂しさを隠し、ピンクの豚が買われていくのを喜ぶかのように。


 ダメだ。

 財布の中身には限りがある。病院内にキャッシュディスペンサーはあるが、そこで下ろせる金はお年玉の残りの微々たる物。


 買ってはダメだ。

 これは生活必需品ではない。いわゆる無駄遣い。


 無駄遣いだけど、ムダだけど、でもそれでも私の心は癒される。入院の辛さを少しでも忘れることができる。おそらくそれが目的でだろう。高校生ではなく、小児科に入院しているような子が手にするべき物のはず。


 しかし気づくと緑のカエルも手にしていた。

 新緑の緑、全身緑で背中にはピンクの豚と同じ小さな白い羽。口はオレンジの線。絶妙の色合い。


 ピンクの豚に口はない。

 でも二人を並べると笑顔で私を見つめ返してくる。


 ちょうどいい大きさ、ちょうどいい色合い。

 そのままレジへ向かっていた。


 病室へ戻り、ベッドの見える場所に置くだけで淋しい入院生活が彩られた。心がほかほか温まる。


―― 大丈夫。すぐに退院できるよ。それまでボクたちが守ってあげるから。

 そんなことを言われているような気がした。


 天使のぬいぐるみに見守られ、私は退院できた。

 そして自分の部屋にピンクの豚と緑のカエルを置いた。


 しかしそこで、物足りなさを感じてしまった。

 やはり青いゾウもここに居るべきではなかったのか。


 入院中、青いゾウのことは考えないようにしていた。

 見てしまったら、手にしてしまったら、きっと私は買わずにはいられなくなる。


 しかし私には先立つ物がない。

 だからあの後も売店に行くこともあり、青いゾウは何度も見かけたけれど、ゾウは私の手元に来ることはなかった。


 売店にたった一人残された青いゾウ。

 彼にもしも感情があったのなら淋しくはなかったのか。


 ぬいぐるみに感情はないと言われているが、私はそうではないように思う。それはあると信じている。


 ピンクの豚と緑のカエルは買われて行ったのに、自分だけは残された。

 やはり自分はあの二人ほどかわいげがなかったのではないかと思ったのではないか。


 そんなことはない。

 青いゾウもピンクの豚と緑のカエルと同じくらい愛らしかった。


 ただ、お小遣いで入手するには辛かった。

 だから目を合わせないようにして、逃げるように私は去った。


 緑のカエルまではなんとかギリギリ手にはできたが、さすがに三ついっぺんにはお財布が辛かった。だから私は手にしないようにして、考えないようにして、そして退院した。


 でも家に帰り自室でピンクの豚と緑のカエルをぎゅっと抱きしめていると、やはり青いゾウも彼らと一緒にいたかったのではないかと思ってしまった。


 同じ大きさで背中に同じ白い羽を持った三つのぬいぐるみ。

 それが並んでいる姿を想像した。


 やはり青いゾウも連れてこよう。

 次の通院の日、診察が終わったら、あのレトロな雰囲気のエレベーター近くにある売店に行こう。その頃には次の月のお小遣いももらえている。


 そしてその時が来て、売店に向かった。

 しかし、青いゾウはいなかった。


 あんなに愛らしかったのだから、誰かが購入したのだろう。

 あんなに優しい色をしていたのだから、大病を患った子供の元へと行ったのかもしれない。


 最後に見たのは退院前にチラッとだけ。

 じっくりは見ていない。


 でもそれが、私と青いゾウとの別れになった。


 そして、家にいるピンクの豚と緑のカエルも、私の所へいるよりも、もっと他の場所へ行きたいのではないか。彼らが病院の売店にいたのは、小児科などでまだ小さいのに病に苦しんでいる子たちの苦痛を和らげるためにいたのではないか。


 高校生にもなってぬいぐるみを欲しがるわがまま娘ではなく、両親と離れて淋しい思いをしている子供に安らぎを与えようとしていたのではないかと、そんなことを思ってしまった。


 私ではなく、もっと必要としている子供のところへと、彼らを作った人たちは思っていたのかもしれない。でも、ピンクの豚と緑のカエルのぬいぐるみは、今も私の部屋にいて、今もぎゅっと抱きしめると柔らかくて温かい。


 時が流れ、伝え聞いた話だと、もうあのエレベーターはないらしい。

 その隣にあった売店もコンビニになってしまったらしい。


 レトロな雰囲気の場所にあった三体のぬいぐるみ。

 彼らは不思議なくらい優しい気持ちにさせてくれる。


 行けなくなった今となっては、あれは魔法のお店だったのではないかと思ってしまう。天使の羽が生えた優しいぬいぐるみがいてもおかしくない魔法のお店。


 あの日、青いゾウが残っていたのは、自分だけは自分を必要としている子供の所へ行こうと決めていたのかもしれない。だから私を呼び留めたりせず、ひとりしずかに売店に残ったのかもしれない。


 ぬいぐるみからは、自分を大切にしてくれる人には、すごくはないけど小さな幸せをあげようというオーラが出ているような気がする。


 私は欲張りだから、それを二つも手に入れてしまった。

 青いゾウは仲間のピンクの豚と緑のカエルと別れ、私以外の誰かに小さな幸せを与えに行ったのだろう。


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出会いと別れの小さな違い 玄栖佳純 @casumi_cross

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