第75話 去りゆく人々

 アシェリアは消えたのではない。ヒカルはそう確信するようになっていた。彼女は天の神として、自分とともにある。

 それが神の力で認識したものか、もしくは信仰なのかは分からなかったが、ヒカルはそう感じていた。

「私もそう感じます」とエミルは言った。「最近ヒカル様といると、アシェリア様といるような気がすることが多いんです」


 それから30年ほどで、エミルは息を引き取った。夫と2人の子供と3人の孫に囲まれ、彼女は逝った。老衰だった。種としての身体の小ささは、そのまま寿命に直結する。

「幸せな一生でした……。アシェリア様のもとに……」

 それが彼女の最後の言葉になった。


 エミルの死から10年目に、先輩がヒカルを訪ねてきた。

 彼女は今、日本国内の研究機関を統括する副大臣級のポストにいる。二度結婚し、二度離婚したはずだ。

「ほんと、デウスってちっとも年取らないんですね」

 先輩は呆れたように言った。

「先輩こそ、すごく若く見えます」

 もう七十近いはずなのに、先輩はまるで三十代のように見えた。アシェリア細胞の研究成果のおかげだろう。

「ヒカルくんが言うと、嫌味にしか聞こえないですよ」

 ヒカルはちょっとだけ笑った。

「なに……? 不気味なんですけど」

「いや、ヒカルくんなんて呼ばれたの、久しぶりなんで」

「たまには日本に顔出してくださいよ。日本、大変なことになってるんですから」

 アシェリア細胞の研究により、ホモ・サピエンスの寿命は伸びた。しかし、社会保障費の増加に税収は追いつかず、日本人は死ぬまで労働に追われている。

「でもまあ、そんなことはどうだっていいんです。人が生きようが死のうが、どうだっていい。これ、見て下さい」

 イシュタルと地球の衛星画像だった。日本付近の台風の状況を示している。2つの画像は、驚くほど似ている。

 他にも、ここ数年の噴火や大規模な地震の記録が示される。どれも大きく、痛ましい災害だ。被害はともかく、マグニチュードなどは、2つの世界で非常によく似ていた。まるでシンクロしているようだ。

「過去十年以前には、見られなかったことです。2つの世界が、一つになろうとしているんだと思うんです」

「僕も、そう思います」

 もう、止めることは出来ないとヒカルは思う。ワーム・ホールは今も拡大を続けていた。ヒカル自身、日本政府からの援助や通商にワーム・ホールを大いに利用している。

 なにより地球の意志なのだろうと、ヒカルは思う。地球となりイシュタルを離れた女神は、再びイシュタルと一つになりたがっている。人が通るたびにワーム・ホールが活性化するのは、女神が歓喜しているのだ。例え魂の一欠片となっても、未だに会いたいと願っている。

 アシェリアと離れてしまったヒカルには、その気持ちが痛いほど理解できた。

「あたしには、その気持ち一生理解出来なかったなあ」

 先輩はため息のように言った。

「先輩なら、もう一度くらい大恋愛出来ますよ」

「ありがとう。でも、あたし、もう死ぬんです。ステージ4の末期がん」

「え?」

 アシェリア細胞の研究によって、人類はがんを克服したはずだった。なのになぜ?

「確かに、人類はがんを克服した。寿命だってめちゃくちゃ伸びた。でも、それだけなんです。肝心の脳の寿命を伸ばす研究は、全然進んでいない。アシェリアちゃんの脳が消えちゃったからしょうがないんですけど。地球は見た目だけ若いボケた老人だらけになって、安楽死させられる人もいる。あたしの脳、もうだいぶ萎縮が進んでるんです。あたしは一流の科学者として、誇りを持ったまま死にたい。だから、今日はお別れを言いに来たんです」

 失い続けることに疲れたとアシェリアは言っていた。彼女も、こんな気持ちを味わったのだろうとヒカルは思った。

 二人は固い握手を交わした。

「あたしの人生、色々あったけど、イシュタルにいた一年が一番楽しかったです」

「僕もです」

「たぶん、あたし、ヒカルくんのことちょっと好きだったんだと思います。ごめんなさい。今更こんなことを言って。さようなら、ヒカルくん」

 さようなら先輩とヒカルも言った。


 ヒカルは北アナトリアを守りながら、時々イエローストーンを訪れた。

 水面に立ち、かつて創造の男神だった岩塊を見上げる。

 あなたは凄いですと、ヒカルは語りかけた。女神と子らを守るために身を捧げ、三万年、意思を残し続けた。

 もうすぐ、二人は会えますよとヒカルは言った。


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