第74話 アシェリアのいない世界で

 主を失ったオーシュルージュの軍は、次々と引き上げていった。

 都市メネルの上空に浮かんで、大艦隊が帰っていくのを見届けたあと、ヒカルは日本人たちをポート・アシェリアまで送った。

「古谷さん、君はこれからどうするつもりかね?」

 帰り際に総理に尋ねられたが、ヒカルにもどうしていいか分からなかった。

 イシュタルに残りますとヒカルは言った。


 ヒカルはしばらくボグワートで暮らした。身の回りの世話はエミルがしてくれた。

 他の巫女たちや老シャーマンは、アシェリアへの信仰を続けた。むしろ彼女が天に昇ったことを喜んでいるフシがあった。毎日草原に捧げ物をし、祈りを捧げた。

 彼らはヒカルのことは神だと認めていたが、アシェリアの陪神か何かだと思っているようだった。

 彼らはアシェリアが力を使い果たして消えてしまった可能性など、始めから考えもしなかった。

 ヒカルとエミルだけが、その可能性を知っていた。

 やがて、ヒカルの噂を聞きつけて、都市メネルからの使者がボグワートを訪れた。

「アシェリア・ヌ・メネルの復興もだいぶ進んでおります。しかしながら、オーシュルージュの脅威は未だ大きく、つきましては、神をお招きしたいと存じます」

 若いボグワード人ボグワーテンシスの女性は恭しく頭を下げた。

「エミルはどうする?」

「私も、ご一緒していいですか? ヒカル様のお側にいると、アシェリア様がいつか帰ってくる気がするんです」

 僕もそう思うとヒカルは言った。


「神としてのお名前が必要かもしれません」

 使者が去ったあと、エミルが言った。

「なまえ?」

 ヒカルは特に何も考えずに聞いた。

「アシェリア様の例に倣えば、聖性を表す言葉と、系譜、そして全地の神イシュタルス

「アシェリア・グリーファ・イル・イシュタルス……」

 その名を口にすると、彼女の名乗る姿を思い出す。初めて会った日の草原で、彼女は確かにヒカルの目の前にいた。

 エミルも懐かしく思ったらしく、手を組んでラメ・アシェーリアと祈った。

「ヒカル様の場合、系譜はアシェーリア・イルとなります。ヒカルを聖化させるとイキャル、あるいはエカリュですので……」

 エミルが話を止める。「お気に召しませんか?」

「僕の感覚だと、ちょっと変かな。聖化しなくていいよ。ヒカルのままでいい」

「ラメ・ヒーカルだと祈りづらいですよ」

 エミルはちょっと不満げに言った。

 祈らなくていいよとヒカルは答えた。

「では、ヒカル・アシェーリア・イル・イシュタルスとお名乗りください」

 ヒカルは心の中で、その名を繰り返した。アシェリア、これで君の名はいつも僕と共にある。


 ヒカルはかつてアシェリア神殿だった建物に住むことにした。引き剥がされたアシェリアのレリーフを戻し、彼女の天蓋付きのベッドで眠った。ベッドからははじめバラの匂いがしたが、すぐに消えてしまった。

 住民たちは倒されたアシェリアの神像の代わりに、ヒカルの神像を建てようとした。ヒカルは小さくてもいいから、アシェリアと自分の神像を並んで建てて欲しいと頼んだ。

 眠る前、いつもアシェリアの名を呼んだ。かつてアシェリアがヒカルの名をそうしていたように。祈られる存在となって、ようやく彼女の気持ちがわかった。あれは確かに祈りだった。ヒカルの祈るべき相手も、いまやアシェリアしかいなかった。彼女の救いとなっていたことを、ヒカルは嬉しく思った。

 神を持たない国となったオーシュルージュは、遠縁にあたる王が即位したものの、周辺諸国に領土を食い荒らされつつあった。そのせいで治安は安定せず、海賊と化した商人が、しばしば港を襲った。

 ヒカルはその度に港の上空に浮かんで、警告を発した。

 オーシュルージュを旅したときに会った人々の息災をヒカルは願った。ジロ船長たちは、今も無事に航海しているだろうか。

 ヒカルは都市メネルの代表に、難民は出来るだけ受け入れたいと話した。

「麦が足りなくなります」

 彼は渋い顔をする。

 ヒカルは日本に食糧援助と技術協力を求めた。

 ポート・アシェリアから都市メネルまでの街道が整備され、大量の小麦粉が送り込まれる。肥料工場が建設され、冷害や害虫に強く、収量の多い麦が栽培されるようになった。


 豊かになった北アナトリアを奪おうと、他の国の神が襲って来るようになったことは、多少煩わしかった。

 創造の神の力を体験し、アシェリアの力を科学的な目で見ていたヒカルにとって、彼らは敵ではなかった。ヒカルは二重水素と三重水素から純粋水爆を作り出し、神々の眼前で炸裂させた。

「ヒカル・アシェーリア・イル・イシュタルスである。今後、北アナトリアレーノ・アナトリアから奪おうとするものあれば、皆殺しにする」

 ヒカルはアシェリアのマネをして宣言した。胃に、苦いものが上がってくるのを感じた。

「ただし」とヒカルは付け加えた。「飢えた民のためであれば別だ。話を聞こう」

 神の力は絶大だった。好奇心から、ヒカルは反物質を作り出したことがある。質量あたり核融合の百倍のエネルギーを持つ反物質すら、ヒカルは容易く作り出すことができた。処分に困って、大気圏外までわざわざ瞬間移動して放り投げたほどだ。

 そのくせ、ヒカルは治癒がとても苦手だった。人々は病気や怪我の治療をヒカルには頼まず、ルメンやエミルを頼んだ。

 アシェリアがいかに偉大であったか、ヒカルは心底思い知らされた。

 アシェリアはヒカルにメラハンナを託さなかったのではなく、自分は託すに値しなかったのではないか。そんな不安が胸をよぎる。


「そんなことはないと思いますよ」

 エミルは赤ん坊に乳を与えながら言った。

 胸を覆うケープの下で、赤ん坊が必死で乳を飲んでいる。エミルは神殿政府で働く神の子イラハンナと恋仲になり、昨年、女の子を産んだ。

「はーい、おかわりでちゅね」

 左の乳を与え終わったエミルが赤ん坊に右の乳を飲ませる。ボグワード人ボグワーテンシスの女性は身体が小さく、出産は命がけで、赤ん坊も低体重で産まれる。この間まで目も開いていなかったのに、赤ん坊は力強く成長していた。

 アシェリアと自分には叶わなかったが、命の偉大さに胸が熱くなる。

「ヒカル様はよくやっています。アシェリア様も、きっと褒めてくださります」

「だと嬉しいけど」

 ここ数年で、ワーム・ホールは急速に拡大した。ポート・アシェリア全体に固定的に開くようになり、診療所はボグワートに移転した。日本と中国以外でも、アメリカ大陸に2つ、ヨーロッパに1つ、アフリカに1つが開いている。

 エミルに頼んで赤ん坊を抱かせてもらう。赤ん坊はすぐにぐずって大泣きした。

「やっぱり、だめかあ」

 エミルに赤ん坊を返す。

「大丈夫でちゅよ。びっくりしたね〜」

 赤ん坊をエミルがあやす。

 この命を絶対守らなければならないと、ヒカルは誓った。

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