第73話 最悪の目覚め

 アシェリアがゆっくりと降りてくる。身体を包む光は、今にも消えそうなほど弱い。飛んでいるのを制御することも難しいようで、真っすぐは降りられない。

 アシェリアの赤い鎧はボロボロで、あちこち怪我はしているが、命に別条はなさそうだ。

 ヒカルは広場の中心で両手を広げて彼女を待つ。周りの目など、もう気にならない。

 迎賓館の夜、アシェリアの横に立てなかった。

 今こそアシェリアの手を取ろう。誰になんと思われてもいい。ともに手を携え、同じ人生を歩もう。

 ちょうどヒカルと手が触れたとき、アシェリアの力は尽きた。アシェリアの体重を受け止める。バラの香りに包まれる。

 キスしようとすると、アシェリアは身を反らした。

「ごめん……放射性物質、浴びてるから」

 その言葉に、周りの日本人たちは距離を取った。

「構わない」

 ヒカルはアシェリアを抱きしめた。「病気になったら、治してよ」

「うん」

 アシェリアもヒカルに手を回す。二人は口づけを交わす。シャッターの音とフラッシュに囲まれる。それすら祝福に思える。

 永遠のような、一瞬のような時間の後、二人の唇は離れる。

 それは、キャッチボールをする少年が取り損なったボールのように、二人のほうに転がってきた。その先を見る。谷がいた。左手の指に、ピンがぶら下がっている。

 二人の足元に、手榴弾が落ちていた。

 アシェリアが瞬間移動させようとする。しかし、手榴弾は微動だにしない。もう完全に、彼女の力は残っていないのだ。

 誰かの叫び声がする。

 ヒカルはアシェリアを見る。破れた胸甲、傷と火傷だらけの肌。いつも守られてばかりだった。いつも彼女だけが傷を負ってきた。

 自分は、ボディアーマーを着ている。

 最後になんと呟いたかは、覚えていない。

 ヒカルは、躊躇することなく手榴弾に覆いかぶさった。

 鈍い爆発音が、あたりに響いた。


 目を覚ますと、地面に敷いた毛布のようなものに寝かされていた。エミルが心配そうな顔で覗き込んでいる。彼女は泣き腫らした目をしていた。

 助かった、のか?

 訝りながら胸に手を当てる。服は破れているが、怪我のようなものは何もない。

 おかしい。あたりを見回す。無造作に転がったボディアーマーが目に入る。ズタボロに引き裂かれたそれは、確かにヒカルの行動は夢などではなかったことを示している。

 おかしい。

 ヒカルは、上体を起こした。

「アシェリアは? アシェリアはどこ?」

 エミルは哀しげに首を振った。

「アシェリア様はもういません。天の神となられました」

 眼の前が、真っ白になった。


 ヒカルの身体は、誰が見ても死を確信するくらい損傷していた。胸には大きな穴が空き、とめどなく血が溢れ出して、抱きしめるアシェリアの腕を汚した。

「エミル!」

 アシェリアの声に、エミルが駆けつける。瞳孔を見ただけで、エミルは首を振った。

 アシェリアは必死でヒカルに手をかざす。

「治れ! 治れ! 治れぇっ!! 治ってよう……」

 慟哭に変わる叫びに、誰しもが目頭を抑えた。ここまで取り乱す女神を、この場の誰もが見たことがなかった。

「アシェリア様……ヒカルさんは……もう……」

 エミルが絞り出すように言うが、彼女も次の言葉を継げない。

 やがて、アシェリアは静かに言った。

「わかっている。ヒカルはこのままだと死ぬ。だから、わたしは肉体を捨てる。天の神となって、ヒカルを神にする。もう、それしかない」

 絶句するエミルに、アシェリアは母のような笑みを見せて謝った。

「ごめんね」

 アシェリアが天に昇るということは、地上でメラハンナを守る神がいなくなるということだ。

「謝らないでください、アシェリア様」

 エミルは彼女の神に笑顔を返す。

「元々あなたは、ただ一人のための神。御心のままになさってください。不満を抱く蛇の子メラハンナなど、一人もおりません」

 アシェリアはありがとうと言うと、跪き、祈るように手を組んだ。アシェリアの肉体は無数の黄金の粒となって、天に昇っていく。

 無意識のうちに、エミルは祈っていた。その眼前に、アシェリアが現れた。傷はすべて癒え、白い光のドレスを着ていた。その姿は、他には誰も見えていないようだった。

『これからヒカルを神にする。この奇跡で、わたしは力を失って消えるかもしれない。だからお願い。ヒカルに伝えて』

 ヒカルへのメッセージを告げると、今度こそアシェリアは消えた。


「わかったよ。アシェリア」

 ヒカルは呟いた。

 アシェリアは、かつて彼女を神にしたグリファがしたように、ヒカルにメラハンナたちを託したのだろう。

「君たちは、僕が守る」

 しかし、エミルは首を振った。


『ヒカル、わたしは常にあなたとともにある』

 彼女の最後の言葉は、それだけだった。アシェリアは、ヒカルに呪いをかけなかった。彼女は自分が呪われていることを知っていたのだ。

「常に、ともにある……か」

 ヒカルは、天を仰いだ。涙が溢れる。何年も共にあった彼女の感情や想いは、もう何も感じられない。心の半分を、失ってしまった気がした。

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