第67話 始まりの日、あるいは終わりの場所
闇の中にいた。何重ものヴェールに覆われているような息苦しさを感じる。
身体の感覚がない。
神の心の中だとヒカルは思う。しかし、夢で見た信託のようなビジョンは、何も見えない。
自分の心は耐えきれなかったのだろうか。
アシェリアは無事か。
彼女のことを思ったとき、暗闇に光る蝋燭のような温もりを感じる。
『ヒカル』
アシェリアの声がする。彼女の慈しみに満ちた心は、すぐそばにある。
想いが形を結ぶように、闇の中にアシェリアの白い姿が現れる。
『大丈夫?』とヒカルは心の中で尋ねる。
『わたしは大丈夫。それよりも……』
アシェリアがあたりを見渡す。
暗闇に目が馴染むように、あたりの様子がわかるようになっていた。
それは膨大な情報の塊だった。ニューロンを凝縮した脳のように、あるいは恒星がひしめき合う銀河の中心のように、神の記憶が二人を包んでいた。
この神もまた、かつて人であったようだ。男性だ。
毛皮を纏い、旧石器を操る人々の姿が見える。数は少なく、死と隣り合わせの日常だ。夜空の星々の並びは、ヒカルの知ったものではない。数万年は遡るだろう。
この神こそ、始祖の神だとヒカルは確信する。
しかしその記憶は、不完全なデータのように断片的だ。長い時を経て、記憶の大半は損なわれてしまったのだろうとヒカルは思う。
『この神は、もうほとんど死んでいる』
ヒカルの思考を感じてアシェリアが言う。『残っているのは、魂の欠片のようなもの。この記憶も、残滓に過ぎない』
声はもう聞こえない。剥き出しの感情が二人を包んでいた。数万年分の喜びや恐怖や悲しみに押し潰されそうになる。
『きっと……一人では受け止められなかった……』
アシェリアの心が聞こえる。
二人は手を繋ぎ、記憶の海を潜る。
神の心から、自分がアシェリアに抱いているのと同じ想いが伝わってくる。
この神にも、かつて愛する人がいたのだ。
彼女もまた神の力を持っていた。彼らが神の力に目覚めたとき、彼らの集団は、急速な寒冷化により絶滅しかけていた。
たった二人の神は、優れた認識力で、獲物の居る場所や、食べられる植物を見分けることで、仲間たちを残酷な死から守った。
二人の神も睦み合い、子にも恵まれた。
彼らを称える祭祀が行われ、像が作られ、洞窟に壁画が描かれた。
彼らに見守られて数万年が経つ頃には、取るに足らない小集団だったホモ・サピエンスは、少しずつユーラシア中に広がり、海を渡り、太平洋の島々に拡散していた。
新天地を訪れるとき、決まってその先頭には二人の神がいた。
彼らの子孫には神の力に目覚めるものもいたが、その力はいずれも弱かった。
ホモ・サピエンスたちは、幾度もの寒冷化を乗り切り、後に
やがて、ホモ・サピエンスは太平洋を渡り、南アメリカ大陸に到達する。
彼らの定着を見届けた二人の神は、いつものように先んじて北アメリカ大陸を訪れる。
豊かな森と多種多様な大型動物に恵まれたその地は、楽園のように見えた。
『我らの子は、ますます栄えるだろう』
彼はそう思ったが、女神は不安を口にする。
『大地が揺れている』
その揺れの中心を訪れたとき、彼らは絶望する。
広大な平原のあちこちで、熱水が吹き上げ、隆起した大地は彼らの目の前で爆発した。
悠久の時と世界中を旅してきた彼らは、これが巨大な火山噴火の始まりであることを知っていた。
しかし、彼らが絶望したのは、この噴火にではない。大地の底、マグマ溜まりの更に深くに、煮詰めた災厄のような膨大なエネルギーが眠っている。噴火をきっかけにして、それは目覚めるだろう。
ヒカルはその現象を知っている。イエローストーンのような超巨大火山は、地殻の下のマントルにまで繋がっている。マントルから湧き上がるホットプルームは、いったん地殻内でマグマ溜まりとなり、地表でささやかな大噴火を引き起こす。
もし、なんらかのきっかけでホットプルームが地表と直接繋がればどうなるか? 数百万年も続く火山活動が起き、文字通り、大地は一面の溶岩に覆われる。洪水玄武岩と呼ばれるそれは、人類はおろか、生物種の殆どが絶滅する大量絶滅のきっかけとなりかねない。
イエローストーンのホットプルームは、小規模だが一度、そのような噴火を引き起こしたことがある。1千6百万年前のコロンビア川洪水玄武岩がそれだ。地球上で最も新しく最も小さな洪水玄武岩だが、それでも厚さ数キロメートルもの溶岩が、本州島の七割に匹敵する面積を覆っている。
二人の神には洪水玄武岩の知識はない。
しかし、優れた認識力で、それが既に始まっていることを知っていた。神の力では、起きてしまったことを、なかったことには出来ない。
「僕らの子は耐えられないだろう」
ヒカルの口から、神の言葉がついて出る。
「わたしが止める。地の底の火をすべて飲み干して、わたしが止めてみせる」
アシェリアが言う。彼女の意志ではない。始祖の女神の言葉を、代わりに紡いでいるのだ。
「それは僕がやる。僕の身体で、これから起こる噴火を受け止める。それでも噴火を抑えきれるかどうかはわからない。だから君は、子らとともになるだけ遠くへ」
アシェリアの姿をした始祖の女神は微笑む。
「君のいない世で、生き続けるつもりはないよ。わたしも続こう」
男神の身体は大地に蹲ると、マグマを啜った。すぐに肉が焼け、臓腑は爛れ、肌は岩となった。身体が何千倍にも膨らむ。
ヒカルはいつしか、自らの肉体がマグマを吸って際限なく膨らむ姿を見下ろしていた。
魂は、まだ生きていた。同時に肉体を持っていたときとは比べ物のならない力を手にしたことを、男神は知る。天の神が生まれた瞬間だ。
「この力があれば、もっと確実な方法がある」
ヒカルの言葉に、アシェリアは意図を瞬時に理解して頷く。
「私も身体を捨てる。私の身体で、この星をもう一つ作る」
二人の神は、女神の肉体と記憶を元に、噴火の起きる前の世界を創った。大地を、海を、人以外のすべての生物を作り出し、巨大噴火などの災いが起きる確率の半分に少し届かないものをその世界に預けた。
「君の世界は災いが僅かでも少なくなるようにしよう。弱き子らを住まわせたい」
彼らの子孫は、何世代も重ねるうちに、神の力に恵まれやすいグループと、そうでないグループに分かれるようになっていた。
世界を作り上げる頃には、すっかり夜になっていた。新しい世界は、今まさに朝を迎えるところだ。
二人の神は、もうほとんど力を使い果たしていた。自らの存在に終わりが近いことを知る。
薄れゆく意識と存在の中、二人は手を取りあって別れを告げる。女神は新しき世界に向かい、男神はここで子らに警告を出し続けなければならない。
「もう、会えないね」
女神はそう言って、子らを連れて新たな世界に去った。
そうだろうかとヒカルは思う。遠い遠い未来、いつか二人は再会する気がする。この愛は、もう一度会いたいと思う気持ちは、どれだけ時を経ても消えることはない。
そのことはつまり、二人が分けた災いが、いつか巨大なひとつに戻ることを意味する。
このことは子らに伝えなければとヒカルは思った。
女神の世界の安寧を願う。そして、いつかもし、女神の世界と繋がったら、女神の連れて行った子らの子孫と会えたら、我らのことを話したい。君たちの遠く古い父と母が、命を捨てて新たな世界を作ったことを。
それが自分なのだと、ヒカルは理解した。初めて女神の世界から、男神の世界を訪れた者。
男神の魂は、ずっとヒカルに話しかけていたのだ。ワーム・ホールを通るたび、神託として。女神の世界から男神の世界を初めて訪れた者。そしてこの世界の女神と、恋に落ちたもの。ずっと、僕らの恋は、神に見守られていたのだ。
ヒカルとアシェリアは、気がつくとかつて男神だった溶岩ドームの上に仰向けに寝ていた。
繋いだアシェリアの手の温もりに、愛する人といられる幸せを感じる。
「アシェリア、好きだよ」
ヒカルは思わず口にしていた。
「わたしもだよ」
アシェリアの声がする。
男神の声は、もう聞こえない。わずかに残っていた魂の最後の一欠片も、たった今消えたのだ。
「託された、みたいだね……」
ヒカルの呟きに、アシェリアはそうだねと応えた。
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