分かたれた世界で
第68話 残る者、帰る者
「科学的証拠とは全く言えませんね。それ」
イエローストーンでのことを先輩に話すと、予想通りの反応が返ってきた。まあそうだろう。ヒカルたちの経験したことは、神秘体験とでも言うべきことで、科学的には未知の現象だ。再現性もない。
「でも、信じますよ」と先輩は言った。「二人のこと、信じます。それに、あたしの仮説とも一致します」
先輩はパソコンの画面を開く。火山のシミュレーションが映し出される。
「姶良ですか?」
「そうです。比較的研究が進んでてデータも豊富なので」
確率モデルで噴火のシミュレーションを行ったもののようだ。この短時間でよく組み上げられるものだと感心する。
ヒカルのよく知っているウルトラプリニー式噴火が再現される。何回か試すが、いずれも最後は同程度のカルデラを形成する。
「ならないんです。何度試しても」と先輩は言った。「イシュタルの姶良カルデラは規模が大きすぎる。地球と分かれた直後なのになぜ? そもそものマグマ噴出率が地球と違うとしか考えられない。まるで誰かが、地球とイシュタルの確率を意図的に操作したかみたいに」
ヒカルは気づく。ヴェスヴィオ山、アララト山、鬼界カルデラ、そして富士山、この世界の三万年前以降の火山はいずれも地球より巨大だった。ボスポラス海峡を作った洪水もまた、イシュタルでは遥かに規模が大きかった。遠く古い父と母に、地球は今も守られていたのだ。
男神の魂が消えて、ワーム・ホールへの影響が心配だったが、少なくとも今のところは以前と変わりなく地球と交信出来ていた。
ヒカルは神秘体験についてはレポートしなかった。
ただ淡々と、北米で人型の溶岩ドームを発見したこと、それがアシェリアによれば創造の神の一人であることを報告した。
日本からは特に返信はない。その代わり、一つのファイルが送られて来た。『任期終了に伴う、帰国日程調整のお願い』と、そのタイトルにはあった。
もう一年経つのかとヒカルは思う。
「任期延長出来ないか、相談してみようと思うんです」
「あたしは、帰りますよ」先輩は即答した。「こっちだと機材が少なくて解析できないこともたくさんあるし、理論化も進めたいし。なにより学会出たいです」
地球では新世界を専門に扱う国際学会も発足していた。先輩が戻れば、時の人として大活躍するだろう。
先輩と梶、施設科の半分が地球に帰ってしまうと、ヒカルの日本人の知り合いはほとんどいなくなってしまった。
新しい留学生は、東大医学部を出た異色の人類学者で、小宮山という32歳の女性だった。彼女はヒカルのことを古谷さんと呼んだ。
ヒカルとアシェリアの関係は公式に日本政府が認めた事はないが、半ば公然の秘密となっていた。そのことを小宮山は嫌悪していた。
「古谷さん、研究対象とそういう関係になるのは、科学者としての倫理的にどうかと思います」
小宮山は真剣な目でヒカルに言った。
研究対象とする前からそういう関係だと思ったが、ヒカルは反論しなかった。
ヒカルにとって唯一の救いは、エミルが帰ってきたことだ。彼女はこの一年、看護師としての教育を受けていた。ヒカルがイシュタルに残ったことで、ルメンは地球に残り、医師としての教育を受けている。
エミルは自衛隊病院から派遣された医師とともに、北アナトリア国唯一の診療所で働いている。
「やっぱり、やるの?」
アシェリアが顔をしかめている。
「しっかりしてください。アシェリア様」
エミルに促されてアシェリアは渋々腕を出す。見るからに痛そうな大きな注射器をエミルはアシェリアに刺す。ヒカルも痛い。アシェリアと繋いだ右手を握りしめた。
アシェリアは今、不妊治療を受けている。注射しているのはホルモン剤だ。内服薬では効果がなく、先月から注射になった。アシェリアは、注射がどうも苦手らしい。
「僕も子供のころ、注射は嫌いだったよ」
ヒカルはせめてもの慰めを言う。
「子供じゃないよ!」
千年を生きた女神が頬をふくらませる。子供にしか見えない。
彼女は最近、少しだけ肉付きが良くなっている。ヒカルにはよくわからないが、胸も張って痛いと訴える。
「そんなにお辛いなら、代理出産という方法もありますが……」
「もうちょっと……頑張る」
エミルの言葉に、アシェリアは絞り出すように答えた。
小宮山は古代語も俗語も
ヒカルはこのところ、黒海沿岸の段丘調査を行っていた。段丘は比較的新しい、数万年前以降の堆積物で出来ていることが多い。世界が二つに分かれて以降の、イシュタルの辿った道を明らかにしたかった。
地図を元に地形を判読し、一つ一つの段丘を回って層序を記載し、サンプルを採取する。地道な作業だ。夜はメラハンナの集落に泊めてもらうか、テントを張って一人で眠った。寂しくはなかった。
男神の意識に触れて以来、二人にはいくつか変化があった。創造の神の力を目にしたことで、アシェリアの神の力は格段に強まった。また、ヒカルとアシェリアは、離れていても、互いの居場所がわかったり、なんとなく考えていることがわかるようになった。
「こんなこと、初めてだよ」とアシェリアは不思議がった。「たぶん、心を強く繋ぎすぎた。お互いの心が混ざりあってしまったんだと思う」
「アシェリアをいつも身近に感じられて、嬉しいよ」
ヒカルはアシェリアと指を絡める。距離が近ければ近いほど、考えははっきりとわかる。
アシェリアが真っ赤になる。
「どうしたの?」
「その……ヒカルが……わたしで興奮しているのが……わかって」
ヒカルはアシェリアにキスをした。
「アシェリアも、興奮してる……」
アシェリアは小さく頷いた。
二人は何度も体を重ねたが、まだ子供は出来ていない。ホルモン剤を投与しても、アシェリアの身体はすぐに分解してしまうようだった。ようやく初経は来たものの、周期は安定しない。
ヒカルと小宮山は月に一度、ポート・アシェリアに集まる。地球との連絡と、互いの情報交換のためだ。
小宮山は文化人類学と自然人類学の両方の素養があるらしく、研究内容にヒカルは目を丸くした。
どうして自分の周りは超人だらけなんだろうと思う。
「これ、アシェリアさん宛みたいね。古谷さんから渡してね」
小宮山に記録メディアを渡される。
あとでアシェリアと確認すると、彼女の細胞の現状だった。いくつかロストしたものがある。どういう意味だろうか。
「ああ、それ。研究中に細胞死したものと……」小宮山は小声で続ける。「いくつかは盗難にあったって噂ね。谷って政治家が持ち出したらしいわよ」
谷? どこかで聞き覚えがある。アシェリアの思考が伝わってきて、内閣府で彼女に自衛隊をけしかけた傲慢な男かと気づく。しかし、谷がなぜ?
「知らないわよ。それに谷って人も行方不明なんだって。詳しくは日本政府にでも聞いてよ」
植村にでも会ったら聞いてみようとヒカルは思った。
一年はあっという間に過ぎた。
ルメンの教育に更に時間が必要とのことで、ヒカルは更に一年任期を伸ばすことが出来た。
小宮山は交代し、ハーバード出身の言語学者が新たに赴任した。
ヒカルはこの年も泥臭くフィールドワークで黒海周辺の段丘の調査をした。
ヒカルは四年目を迎える前に、一度だけ日本に帰った。
大学には知っている人はほとんどいなくなっていた。両親は店を他人に譲り、細々と生活していた。ミサキは東京の大学に進学し、ほとんど帰って来ないとのことだった。
なんだかこっちが異世界みたいだなとヒカルは思った。
四年目の交代に合わせて、総理の訪問も予定されていた。
別に来なくたっていいのにとヒカルは思う。今回もヒカルは交代しない。
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