第66話 イエローストーン

 その『声』は、カナダ上空に入るとヒカルにもはっきりと聞こえるようになった。日本語ともイシュタルの言葉とも違う。それでも意図ははっきりと伝わってくる。

『帰れ。全て忘れろ』とその声は言っていた。思考の底、非言語領域に直接意志を送り込まれているようだ。

 言葉とともに、感情が湧き上がってくる。痛み、恐怖。

 ヒカルも頭を抱える。

「確かに、これはきつい」とヒカルは言った。全身を強打したときのように、吐き気まで覚える。

「大丈夫?」とアシェリアが顔を覗き込む。

「大丈夫だ。進もう」

「辛いよね。わかるよ」

 アシェリアがヒカルを抱き寄せる。「心を繋ごう。今のわたし達なら、出来るはずだよ」

 アシェリアの言葉に、ヒカルは頷く。

 途端に、重しが外れたように身体が楽になる。心に温もりが満ちる。感覚を共有したときに似ているが、少し違う。ちょうど声が送り込まれている場所だけが、彼女と一つになっているような気がする。

『楽になったみたいだね』

 アシェリアの言葉が直接聞こえる。

 ヒカルの肯定の意志も、ちゃんとアシェリアに伝わったのがわかる。

 アシェリアは体を離し、ヒカルを見上げる。

『心と呼べる部分を繋いだ。一人では受け止め難い痛みでも、二人なら』

 ちょっと照れたような、アシェリアの声がした。


 どうやら声は南西から届いているらしかった。二人は声のする方向に、導かれるように瞬間移動を繰り返す。

 声は恐ろしいが、たしかに敵意は感じられない。アシェリアの言うとおり、幼子を叱る親のような、どちらかといえば親愛さすら感じる。

 ふと、夢で見た神託を思い出す。

 あの神は、我らの子と言っていた。イシュタルや地球の神話でも、人を神の子孫と位置づけるものは多い。

『僕らは、神の子なのだろうか』

 ヒカルの問いに、アシェリアは何も答えない。

 瞬間移動のたびに、意図してか高度が下がっている。アシェリアは声を頼りに目標を定め、視覚はもう必要としていないのがわかる。

 眼下には広大な平原と、まばらな森が広がっていた。

 人の姿や痕跡は一切なく、ゾウやウマの群れ、それらに襲いかかろうとするネコ科の大型動物などの姿が見えた。いずれも、地球ではホモ・サピエンスが滅ぼしてしまった動物たちだ。

 やがて、眼前に山塊が見える。ロッキー山脈だろう。

 声は大きくなってはいるが、ただ、同じ意思を伝えてきている。録音されたように単調だ。あるいは、うわ言のようにも思える。

「近い……」

 アシェリアが声に出して呟く。ロッキー山脈の裾野の緩やかな丘陵地帯を指差す。

「あそこに、いる」

 アメリカの地図を思い出す。地球では、ちょうどイエローストーン火山があるあたりではないか。嫌な予感がする。

「行こう」

 ヒカルは頷く。握る手に、力がこもった。


 その光景を見たとき、二人は言葉を失った。

 眼下に、巨大なカルデラ湖が広がっていた。直径は100キロは下らないだろう。周縁のカルデラ崖の高さは、見えている部分だけで1キロはある。

 その中心に、巨大な黒い溶岩ドームがそびえ立っている。

 異様なのはその形だ。

「まるで……人だ」

 アシェリアが呟く。ヒカルも同じことを思う。

 それはどう見ても、人が跪いているように見えた。全身のうち、背中と頭の一部以外は水中に没しているが、体長は10キロ以上はある。

 声も、その溶岩ドームから届いているのが

「ヒカル……」

 アシェリアが問うような視線を投げかける。

「地球に……こんなものはない」とヒカルは言った。

 地球のイエローストーン火山は、巨大な活火山ではあるが、明確な山体も持たず、広大なエリアで熱水や熱泥を吹き上げるといった、散発的な活動に留まっている。最後の巨大噴火も64万年前で、カルデラも風化して一見それとはわからない。

 二人はゆっくりと溶岩ドームに降りる。玄武岩質の黒い岩肌。ところどころに、緑色の橄欖石かんらんせきが含まれている。

 見た目だけでなく、火山学的にも奇妙だ。

 イエローストーン火山のマグマは流紋岩質だったはずだ。冷えると白色の岩になる。流紋岩質のマグマは流動性が低く、溶岩ドームを作りやすいが、玄武岩質のマグマではありえない。

 橄欖石かんらんせきが含まれていることと合わせて考えると、地表付近のマグマだまりではなく、もっと深くの、マントル由来のマグマなのだろうか。

 もっと深く? その言葉が引っかかる。

 なにか大事なことを忘れているような気がする。

 アシェリアにそのことを話すと、彼女は考え込んだ。彼女も思い出せない部分があると言う。

「この岩が神……だとしたら……」

 ややあって、彼女は決意したように顔を上げる。

「ヒカル、君との心の繋がりを解く。わたしは、この神と心を繋ぐ」

「大丈夫なの? そんなことをして」

「わからない……」

 アシェリアは顔を曇らせる。

 声は、今も頭の中に響いている。正面から受け止めたら、どのようなことが起こるかわからない。雷に打たれた立ち木のように焼け焦げるかもしれない。

「でも、神託を全て受け取るには、それしかない」

「君一人で背負うことはないよ」

 ヒカルはアシェリアに笑顔を向ける。「一人では受け止められなくても、二人なら」

 ヒカルはアシェリアの手を取る。

 アシェリアが頷く。

 その瞬間、巨大な波に呑まれるように、二人の意識は暗転した。

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