第65話 アメリカへ

 オーシュルージュの領土を避け、北回り、北極圏経由でアメリカ大陸に向かう。

 今回はアシェリアとヒカルの二人旅だ。

 先輩は都市メネルに残った。

 二つの世界の分岐年代が明らかになって以来、先輩はひたすら計算を繰り返している。3万年前の分岐から、二つの世界にどれほどの差異が生じるのか、理論値を先輩は探していた。ヒカルの感覚では変数が多すぎるが、なんとかなりそうだと、真剣な顔で先輩は言った。

 アシェリアとヒカルは、二度の瞬間移動でヨーロッパを北西に突っ切り、北海に抜ける。活発な火山活動を繰り返すアイスランドを経由するが、楽しむ心の余裕がない。

 グリーンランドの広大な氷床の上空で、アシェリアが身体を強張らせる。

「そんな……もう聞こえる……」

 彼女は耳に手を当てて小さく呟く。

 頭の中で声がすると彼女は言った。どこか遠くから、直接語りかけられている。

 アシェリアの顔色はひどく悪い。

 山は氷に覆われているが、海沿いにだけ、マーカーを引いたような緑が広がっている。

 荒れた大地に二人は降りる。頭を抱えてアシェリアは座り込む。

「あのときと同じだ。帰れ。全て忘れろと言っている。声というより、意志そのものだ。微かだけど、とても力強い」

「本当に、同じなの?」とヒカルは尋ねた。

 間違いないと、アシェリアは言った。

 アシェリアにも、似たような力がある。認識できる範囲に、強制的に声を聞かせる力。

 しかし、アシェリアが千二百年ほど前に聞いた場所は、アメリカ大陸の反対側。ここからは5千キロは離れている。

 凄まじい認識力だ。これが天の神の力なのだろうか。

 ヒカルはアシェリアの肩を抱く。

「帰ろう」とヒカルは言った。「無理しなくていい。帰ろうよ」

「どうして?」

 アシェリアは顔を上げた。「帰らないよ。この先にいるのは、たぶん創造の神だ。イシュタルと地球、世界を二つに別けた理由もきっとそこにある。その理由、ヒカルは興味がないの?」

「興味は……ある」

 ヒカルは慎重に考えながら言った。

 イシュタル各地を飛び回ってきたのは、全ては二つの世界の謎を解明するためだ。本当に神が世界を別けたのか、いつ、なぜ別けたのか知るために、さんざん苦労してきたのだ。その答えがあるとしたら、是非とも行ってみたい。

 しかし現実的に、行けるのだろうか。アシェリアを見て思う。彼女の体調は大丈夫か。

 それに、創造の神自体が危険な存在かもしれない。わざわざ警告まで発しているのだ。攻撃してこない保証はない。

「それは、大丈夫だと思う」

 アシェリアは弱々しく微笑む。

「敵意は感じない。どちらかというと、火に近づく子を止めようとする親のような、そんな感じがする」

「体調は大丈夫?」

「うん」とアシェリアは頷く。「強い力にあてられただけだから、少し休めば良くなると思う。それに、前は従うしかなかったけれど、今はヒカルがいるから」


 二人は並んで座ったまま、アシェリアの回復を待つ。岩だらけの地面が海岸に向けて緩やかに傾斜している。よく見ると所々に短い草と、小さな花が咲いていた。

「あれ、鳥なのかな」

 アシェリアが波打ち際を指差す。灰っぽい二足歩行の鳥の群れがいた。ちょうど親鳥が雛に魚を取ってきたところなのだろう。群れ全体が湧くように騒がしい。

「ペンギンだね」とヒカルは言った。「飛べない鳥を見るのは初めて?」

「飛べない鳥がいるの?」

 アシェリアが驚いたように言う。

 ヒカルはダチョウやペンギンといった飛べない鳥について話す。鳥はかつて恐竜と呼ばれてた動物群の生き残りであること。空に生息域を移した故に、哺乳類との生存競争に晒されずに生き残ったこと。再び地上に進出した飛べない鳥のほとんどは、哺乳類との生存競争に破れて絶滅したこと。残っている飛べない鳥は、極地のような過酷な環境に適応した、ごく僅かな種しかいないこと。

 アシェリアはまるで神話を聞くように、遠い目をして聞いている。

「僅かに残った飛べない鳥も、ホモ・サピエンスが拡散するに従って、次々と絶滅している」とヒカルは言った。眼前の群れを指差す。

「あのオオウミガラスも、地球では、もういない」

神の子イラハンナって酷いね……本当は、わたしたちが絶滅したほうがいいのかもね」

「アシェリアは、ホモ・サピエンスが嫌い?」

「そんなに好きじゃないと、時々好きの間くらいかな。自分も含めて、嫌な部分をたくさん知っているから」

 オーシュルージュで見たイラハンナの残酷性を思い出す。あのとき、ただアシェリアのことを思っていた。ヒトを嫌いにならずに済んだのは、アシェリアがこの世にいたからだ。

「僕は、アシェリアのことが好きだよ」

「ありがとう。わたしもだよ、ヒカル」

 アシェリアは目を閉じる。二人は口づけを交わす。

「そろそろ、行こう」

 目を開いたアシェリアは言う。琥珀色の瞳が濡れている。

 泣いていたのだろうかとヒカルは思った。

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