第63話 共同体から国へ

「無茶をするね……」

 バッロでの話を聞いたアシェリアは、呆れたように言った。

 バラの香りにふわりと包まれる。アシェリアに抱きしめられていた。

「でも、無事で良かった」

 ため息のようなアシェリアの声がする。

「ヒカル……」と彼女は言った。何度も繰り返し名を呼ばれる。

 夕方を迎えたアシェリア神殿は静まり返っていた。夏の間は人々は早朝から働き、昼には仕事を終えてしまう。

 ヒカルはアシェリアの身体に手を廻す。片手で抱けてしまうくらい、細い胴。この身体に宿る神の力に、現実感がない。

 三ヶ月に渡る旅を終えて帰ってきたヒカルたちを、アシェリアは港まで出迎えた。

 驚く船員たちに、「こなたの客人である」と古代語で昂然と告げる姿は、まさに神の威容に満ちていた。

 しかし、ヒカルの腕の中のアシェリアは、ただの一人の人間にしか思えない。

「アシェリアは怖くないの?」

 ヒカルは思わず尋ねる。

「なにが?」

 アシェリアがヒカルを見上げる。

オーシュルージュの神オーシュルージェス……神の力が」

「それは……怖いよ」

 アシェリアは静かに言った。

 そうだろうとヒカルは思う。どれだけ強力な神の力を有していても、アシェリアの肉体や精神は人のものでしかない。傷つけられれば痛み、苦しむのだ。

「神の力は、大事なものを理不尽に奪っていく。どれだけ頑張っても、今までたくさんのものを奪われた。いつか、ヒカルも奪われるんじゃないかと思うと、とても怖い」

「自分が傷つくことは、怖くないの?」

「痛いのは嫌だよ。泣きそうになる」とアシェリアは小さく笑う。「でも、大切なものを守れるなら、傷くらい、いくらでも負う」

「ごめん。僕は甘かった」とヒカルは言った。

「うん。甘い。ヒカルは油断した」

 少しだけ怒ったように、アシェリアは言った。

「本当に心配してたんだからね。イシュタルでは、地球と違って人は簡単に死ぬ。命の価値も、地球より低い」

「わかるよ。いろんなものを見た」

 訪れた港や都市のことを思い出す。幼い子供の物乞い。道端の遺体。船倉に奴隷を詰め込んだ交易船。瀕死の奴隷を海に投げ捨てる船もいた。

 ヒカルの知っている人の尊厳など、はじめから存在しない世界があった。

 ややあって、アシェリアは小さく言う。

「ヒカルは、地球に帰ったほうがいいのかもしれない。平和な世界で、百年くらい生きるのが、」

 ヒカルは手を上げて彼女の言葉を遮る。

「アシェリア、君の隣にいられないなら、

 僕は死んでるのと同じだ」

 アシェリアが小さく、ありがとう、と言うのが聞こえた。

 それから彼女はようやく、いつもの屈託のない笑顔になった。

「わたしもだよ、ヒカル」


 オーシュルージュから二人が持ち帰った膨大な写真やサンプルは、地球に送られ、分析が進む。

 ヒカルたちが留守にしていた間、アシェリアは北アナトリアに変革を起こそうとしていた。

 都市メネルでは、議会が開かれていた。

 商人や職人や港などの組合の役員や、周辺の農村の長や、都市メネルの住居地区のブロックごとの代表がアシェリア神殿に集まり、アシェリア・ヌ・メネルの今後について話し合った。

 アシェリアが目指す都市メネルの自治政府の樹立に向けて、大きな一歩を踏み出したことになる。

 といっても、議会で建設的な意見は出ず、情報共有をしたに過ぎない。

 これまで彼らは神殿政府、もっと言えばアシェリアに頼りきりで、自分たちで都市メネルの将来をなんとかしようという発想は全く無かった。

 彼らは、自分たちがいったい幾らの税を払っているのかさえ、把握していなかった。女神の恩寵で無料のパンを得ながら、漫然と日々の取引を行い、あるいは次の収穫までの間を生き延びることしか興味がなかった。

 神殿政府は倉庫を公開し、今年の麦の税が年間消費量より3割程度多いことや、メートル法にして数トンの金の貯蔵があることを明らかにした。その中にはアシェリアの金の胸飾りや、腕輪なども含まれる。

 ヒカルの感覚では裕福なように思うが、財政としては余裕がないらしい。

 税収が安定しないのだ。

 商人や港からは比較的安定した定率の税が、砂金で納められる。これは神殿政府の人件費や、パン釜や水道や城壁の建設に使われている。

 この砂金が曲者で、都市メネルでは、価値が低い。砂金の産地であることに加えて、常に人口流入傾向なせいもあって、副食の物価がすぐに高騰するためだ。裕福層が主食としている良質の麦も、常に高騰傾向にある。そのため、金は、平均するとオーシュルージュの相場の半分程度の価値しかない。

 更に問題は農民たちで、神殿政府が聖俗一体となっていることもあって、彼らは税を喜捨や奉納品だと捉えているフシがある。

 豊作のときはたくさん税を納め、不作のときは質の悪いカラスムギのようなものばかりで、量も少ない。下手をすると砂金だけの年もある。

 そのため、麦といっても品質が一定ではなく、パン向きのものから、ひどく味の悪いものまで様々だ。それを粉にし、なんとかパンの原料になるよう調合し、石炭や酵母とあわせて住民に還元してしまうと、比較的豊作の今年でも、政府の手元には税の1割ほどしか残らない。これは、主に不作の年向けの備蓄に回る。

 他に、都市メネルを訪れたメラハンナたちが神殿に奉納する、干し肉やナッツ類や毛皮や宝石なども収入になるが、これもメラハンナの気分次第で、安定しない。

 不作のときは、神殿政府はすぐにパンの材料に事欠き、ナッツを混ぜたり、裕福層から麦を買ったりと、なんとかやりくりする羽目になる。

 当然、不作の年の麦は高く、神殿政府の金は見る見るうちに減っていく。

 それでも賄えないほどの凶作の年には、都市メネルで働くメラハンナたちに宝飾品を渡してアシェリアの森イルマ・アシェーリアの故郷に帰ってもらうことで、人口の調整を行っている。

 メラハンナにとって宝飾品の価値は低く、アシェリア由来のものを優先的に渡すことになる。アシェリアは、かつて夫だった王から贈られた宝冠や装飾具のほとんど全てを、メラハンナに与えていた。

 話を聞くだけでも、これまでのアシェリアの苦労が偲ばれる。

「他所から食料を買えれば、だいぶ楽になるんだけど……」ともアシェリアは言うが、あまり乗り気ではない。

 彼女もオーシュルージュの実情は知っているのだろう。

 オーシュルージュでは貧困と飢餓が蔓延はびこっているが、絶対的に食料が不足しているわけではなく、主に配分の失敗によるものだ。

 裕福層は醸造に回すほど食料がある一方で、貧困層はその日食べるものすらない。北アナトリアが食料を輸入することはできるだろうが、その結果として飢餓が拡大することは疑いようはない。ひとたび不作となれば、餓死に繋がる。

 地球で19世紀に起こったアイルランドのジャガイモ飢饉では、人口の2割が減少したが、飢饉の間、大量の餓死者を出しながらもアイルランドからの食料の輸出は続いた。

「酷い話だね……」

 ジャガイモ飢饉の話に、アシェリアは声を詰まらせる。

「なんとしても、パンの配給は続けたい。都市メネルの自治が進んでも、これだけは引き継いで欲しい」

 アシェリアは都市メネルの政治機構が充実すれば、世俗からは身を引くつもりだ。

 都市メネルの人々が、アシェリアの介入がなくなったあとも、慈善的な精神を保ち続けていけるのかどうか。地球の歴史を参考にしようとしたが、ヒカルには例が思いつかなかった。


 一方で、メラハンナたちに対してもアシェリアは行動を起こしていた。主だったシャーマンや長老を集め、彼らの教義を確認したのだ。

 イシュタルの俗語では、『蛇の子メラハンナ』と一括にされるが、見た目では少なくとも4種類のホモ属に分類される。

 まずは、エミルたちボグワート人。ホモ・サピエンス・ボグワーテンシスと呼ばれるホモサピエンスの亜種だ。

 次に、森の言葉アウラ・ニカで『虹の一族』と呼ばれる、多色の体毛が特徴的な種族。

 もう一種は、『蛇の子メラハンナ』の由来となった、魚鱗様の皮膚を持つ種族。

 最後に、おそらくはネアンデルタール人。

 彼らの生体サンプルは地球に送っているが、神の子イラハンナとの混血が進んでいるため、分類学的にはまだ議論がある。ボグワート人ボグワーテンシス以外は、学名もついていない。

 彼らは広大なアシェリアの森イルマ・アシェーリアに点在して、それぞれ種族ごとに、いくつもの小さな集落を作っている。

 集落の形態も様々で、ボグワートのような周辺の集落にまで影響を持つほどの一種の聖地から、住居を移動させながらシカやイノシシを追って暮らすものや、黒海でカヌーを浮かべて水上生活を送るものまで、狩猟採取民の見本市の様子を呈している。

 当然、集落ごとに信仰の形も違うが、大別すると20くらいの宗派になるという。

 アシェリアは集めた20人の長老やシャーマンと対話し、まずは自分が肉体を持った神であり、全てのメラハンナに対して平等であることを理解させた。信仰の中には、アシェリアが祖霊や動物霊の化身であるとか、自分たちの部族は特にアシェリアに選ばれているといった教義を持つものもあったからだ。

 将来的には、アシェリアは自身を神の力を宿した人間であると告白するつもりだ。

 全ては、ヒカルとの関係を前に進めるためだ。

 その姿に、ヒカルは限りない感謝と愛情を感じる。

 それでもアシェリアは、よくヒカルに謝った。彼女は、ヒカルとの関係をオープンに出来ないことに、大きな引け目を感じていた。

 そんなことを思わないでほしいと、ヒカルは思う。アシェリアが側にいるだけで、本当に幸福な気持ちになれるのだから。

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