第61話 フニクリ・フニクラ
イタリア半島を長靴に見立てると、爪先とシチリア島の間に小さな海峡がある。東方からオーシュルージュを訪れる船は、必ずここを通らなければならない。
巨大な神像が見下ろしている。灯台だという。モデルとなっているのは、五代前のオーシュルージュの神だ。神性を譲ったあと、天に昇り海を司る神となったとされている。
海上で臨検を受ける。簡単な審査を受け、通行税の銀貨四枚を払い、木片が発行される。入国許可証のようなものだ。
そこに刻まれた印章を見たとき、ヒカルは全身の血が逆流するのを感じた。荒々しく咆哮する獣の姿。アシェリアの肩に刻まれていた焼印と同じ紋章だ。
彼女は、この国の奴隷だったのだ。
怒りだろうか、焦燥にも似た感情が全身を支配する。
「ヒカルくん?」
先輩の声で我に返る。
「どうしたんですか? 顔が真っ青ですよ」
ヒカルは小さく、なんでもありませんと答えた。
シチリア島の北側、左手に地球では火山島がある。ボルカノ島。
凪いだティレニア海を、船は北に進む。中甲板からは、櫂を漕ぐ水夫たちの仕事歌が聞こえる。リズムに合わせて漕ぐスピードも変わる。今日は随分とゆっくりだ。
アシェリアは今頃何をしているだろうかとヒカルは東を見ながら思った。
アシェリア・ヌ・メネルを出て、一ヶ月が経とうとしていた。
ヒカル達は地球でいうナポリのそばで下船する。ナポリ湾は天然の良港で、順風の乙女号クラスの船が多く停泊している。
地球では、ここから10キロほど西に行けばカンピ・フレグレイ・カルデラ、東に10キロほど行けばポンペイを滅ぼしたヴェスヴィオ火山がある。船から見た限りでは、イシュタルも似たような地形だ。
船は更に北を目指し、オーシュルージュの王都へ向かう。
船員たちと抱擁を交わして別れる。
早ければ二週間、遅ければ一ヶ月後に順風の乙女号と合流する。
それまでの宿の確保のために、市街地に向かう。まちの名はバッロ。都市と呼んでいい規模だ。王の離宮まである。
ジロ船長の紹介状を持って、穀物商人の館を尋ねる。庶民の旅行の習慣のないオーシュルージュでは、宿屋はほとんどない。
貴族や大商人の子弟が旅行するときは、伝手と歓待を頼むのが普通だという。
一介の水夫から身を起こし、王家御用達の穀物商人にまで出世したその商人は、ヒカル達を温かく迎えてくれた。手土産の東方の布も気に入ってくれたようだ。
「アシェリア・ヌ・メネルを越えてきたそうだね」とその老商人は言った。
そうですとヒカルは答えた。
「『悪しき神』に会ったことはあるかね?」
「一度だけ、遠くから。姿を見た程度ですが」
ヒカルは誤魔化しながら、努めて冷静に答える。オーシュルージュではアシェリアがこう呼ばれていることは知っていたが、実際耳にするとショックが大きい。
「どのような神であった?」
「ただの人に見えました。少なくとも、荒ぶる神ではありませんでした」
「そうか。実際見てみないと、わからぬものだな」
老人は目を細めた。
「君たちが羨ましい。多くのことを見、知ることが出来る。わしにはもう叶わぬことだ」
老人は足を引きずっていた。好奇心と探究心に満ちた性格なのだろう。地球に生まれていたなら、良い研究者になっていたかもしれない。
旅の疲れを二日かけて癒やし、ヴェスヴィオ山に向かう。カンピ・フイグレイ・カルデラの形を確認するためだ。
ヴェスヴィオ山近くの村出身だという召使いが案内してくれる。
ヴェスヴィオ山は、地球では山頂付近に小さなカルデラを作っているが、イシュタルではだいぶ噴火史が違うようだ。見事な山容がそびえ立っている。
ヴェスヴィオ山が活動を開始したのは2万5千年前のことだ。二つの世界が分岐した3万年以上前より若い火山だが、それ以前の地殻の割れ目に沿って火山が出来たのだろう。山体自体は、地球とほぼ同じ場所にある。
まずは召使いの出身の村に向かう。
村の周りの畑では野菜だろうか、小さな花をつけた植物が栽培されている。果樹園や、放牧された牛や鶏の姿もある。
召使いの勧めで、村長の家で一泊する。
夕食には子豚の丸焼きと、蒸したイモが振る舞われた。
「ジャガイモ……ですね」
ヒカルと先輩は顔を見合わせる。
村長に頼んで加工前のイモを見せて貰う。小ぶりだが、よく知ったジャガイモだ。
手土産に持ち帰りたいと言うと、村長は怪訝な顔をした。
「東方では、こんなものが珍しいのかね? 貧しい農民の食べ物じゃよ」
ずっと昔から、農民は芋や雑穀を食べてきたという。冬麦はほとんど税にとられ、手元には残らない。それでもこのあたりはバッロのまちが近く、野菜や果物、肉類を売りに行けば現金収入が得られるため、比較的暮らしは悪くないという。
「大事に持ち帰ります」
ヒカルはそう言って、ジャガイモを受け取った。
翌日は日の出とともにヴェスヴィオ山を登る。
裾野の緩斜面には、常緑樹の森が広がっていた。小プリニウスが噴煙柱に例えたカサマツもある。木々は
昨夜の子豚も、ここで育ったものだ。豚は多産なため、ある程度は子豚のうちに食べてしまうらしい。
「でも凶作の年は別ですけどね。寒い夏は子豚を食べずに冬に備えろって、昔から言うんで」
召使いの言葉に、豚一頭と引き換えに売られた美しい少女のことを思う。
やがて本格的な山道となる。
登山道など期待していなかったが、村人が山頂火口で硫黄を採取するための道があり、比較的楽に登ることができた。
山肌は、溶岩流や堆積したスコリア、火砕流の跡と目まぐるしく変わり、歩くのに飽きない。
なにより、ここはヴェスヴィオ山なのだ。
つい心が踊り、ヒカルは歌を口ずさむ。フニクリ・フニクラ。日本では、鬼のパンツの替歌のほうが知られているかもしれない。
「随分楽しそうですね……」
息の上がった先輩が、恨めしそうな目でヒカルを見上げる。
そんな目をされる謂れはない。
先輩は手ぶらだ。先輩のための水や食料は、ヒカルのザックと、召使いの背負子にある。
「そりゃあもう」
ヒカルは満面の笑みで振り返る。地球において、ヴェスヴィオ山は火山研究の聖地とも言える場所なのだ。
噴火の種類のうち、最も爆発的なものをプリニー式噴火というが、これはローマ帝国の博物学者、大プリニウスとその甥、小プリニウスに因んでいる。ポンペイを壊滅させた噴火が起きたとき、彼らはナポリ湾の対岸のカンピ・フレグレイ・カルデラの端のあたりにいた。大プリニウスは調査と救助のためにナポリ湾を渡り、ヴェスヴィオ火山の高温の爆風と火山ガスによって命を失った。小プリニウスは、その時の噴火の様子を驚くほどの正確さで書き残している。
他にも、地球最初の火山観測所が置かれた場所でもある。
「ほんっと、ヒカルくんって火山マニアですね」
先輩が諦めたような声を出す。
「それにしても、なんでフニクリ・フニクラなんですか? 楽しそうでイラッとくるんですけど」
フニクリ・フニクラは、もともとは十九世紀に作られた、ヴェスヴィオ山の登山列車のCMソングだ。
そのことを聞くと、先輩は呆れ果てたように笑う。
「この火山オタクめ!」
やけくそのように先輩もフニクリ・フニクラを歌う。
『
心なしか先輩の足取りが軽くなった。
恋人に結婚しようと呼びかけて終わるその歌に、アシェリアの顔が浮かぶ。
中腹まで登ると、視界が急に開ける。最近の噴火の痕跡だろう。火砕流が谷筋を埋めている。
振り返ると、ナポリ湾や
ちょうど今の標高が、地球のヴェスヴィオ火山の頂上と同じくらいのようだ。
ヴェスヴィオ火山からナポリ湾を見下ろした景色は、古くから絵画や写真でたくさんの記録がある。それらと、同じような地形が目の前に広がっている。
カンピ・フレグレイ・カルデラの大半は海中に没している。
カルデラの北側の陸地には、いくつかの丘や火口が見える。これらは、カルデラが形成されたあとの小規模な噴火の跡だ。
「地球と、同じに見えますね」
先輩が呟く。
ヒカルは黙って頷いた。
体力の限界を迎えた先輩と、ヴェスヴィオ火山を降りる。山頂まで行ってみたかったが、単独行動は控える。
麓の村で一泊し、バッロのまちに戻る。ヒカルは徒歩、先輩はちょうど行商の荷馬車が出るところだったので乗せてもらう。
道は火山灰を突き固めた舗装がしてあるが、メンテが行き届いていないのか、時々大穴が空いていて、衝撃のたび先輩が悲鳴を上げる。
荷馬車には板バネ程度のサスペンションもない。もちろん幌もない。
先輩は村で買った麦藁帽子を被り、荷台に緩衝材代わりに敷かれた藁を集めてクッションにしている。
「腰に来ますね。着く頃には腰痛ですよ、きっと」と先輩がこぼす。
「歩けばいいのに」
ヒカルの言葉に、先輩は絶対嫌と顔を顰めた。
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