第60話 オーシュルージュの海

 船長はジロと名乗った。

 イシュタルでは、庶民は名字や家名を持たない。部族や一族の名を名乗ることはあるが、よほど正式な場でのことだ。

 ヒカル達もイシュタル風に胸に手を当てて、それぞれ名乗る。

 上甲板には、五十人ほどの水夫が集まっている。

 出港前の祈祷を船長が仕切る。祈りが終わると、水夫たちが船内に下りてゆく。乗員のほとんどが櫂の漕手だ。

 上甲板には操帆そうはんする水夫や、操舵員、航海士などの僅かな人数しか残らない。

 もやいが解かれ、掛け声とともに櫂が動き、船が岸を離れる。

 風を読んでいた航海士が、声を上げた。都市メネルの城壁の上空に、白い人影がある。アシェリアだ。

 船長が大声で祈りを捧げる。

 ヒカルは大きく手を振る。見えるだろうか? 彼女の認識力なら、きっと見えるだろう。

 アシェリアはずっと空に浮かんでいた。その姿が点のように小さくなり、空に混ざって見えなくなっても、彼女はそこに浮かんでいた。


 二人が乗り込んだ船は、『順風の乙女号』という。大型バスを一回り大きくした程度のサイズだ。必然的に船内はなにもかも狭い。船長室も見せてもらったが、ヒカル達の部屋と同じくらいの大きさでしかない。

 水夫たちに至っては、個室すらない。コインロッカーひとつ分ほどの棚が割り当てられているだけだ。

 どの棚も厳重に鍵が掛けられている。護符が貼られているものもある。身の回り品を入れておくだけでなく、個人的な交易品のコンテナでもあるのだ。

 まずは地球でいうところのバルカン半島南部、ギリシャの都市を目指す。エーゲ海は治安が悪く、海賊も出るらしい。ヒカルたちの契約には労働の義務はないが、襲撃された際には櫂走の手伝いと戦闘が義務付けられている。

「あんたらの体格じゃ、役に立つとは思えんが、一応な」

 ジロ船長はチラチラと先輩の胸元を見ながら言った。

 スポーツブラで胸を潰し、オーシュルージュ南方の男性のゆったりした装束を着ているが、目立つものは目立つ。

 幸いギリシャまでは、予定通り四日で到着する。

 オーシュルージュの版図では、バルカン半島は辺境に過ぎない。大小様々な領主の封土に分割されていて、港ごと、都市ごとに税制も通関方法も違う。

 比較的交易に理解のある港を選んで補給と交易を繰り返しながら、バルカン半島の南端を回る。アシェリア・ヌ・メネルと違い、各港に滞在するのは、天候にもよるが二日ほどだ。辺境では商売に旨味がないらしい。

 ヒカル達も下船してみたが、どの港も都市と呼ぶにはあまりに小さかった。人口は1万もいないだろう。

 物価は高く、商品は少なく、まち並みは不衛生で、辻には昼から娼婦が立ってた。

 二人は足早に通り過ぎる。一人の娼婦が先輩の腕を掴む。

 先輩は思わず声を上げる。その高い声色に、娼婦が怪訝な顔をする。

「あんた、女?」

 蓮っ葉な口調だが、ミサキより年下だろう。前歯が三本抜けている。

 先輩は黙って首を振る。ヒカルは弟だと言った。

「男でも女でもどっちでもいいよ。今日入った船の人だろ。頼むよ。二人まとめて半銀でいいからさ」

 半銀は銀貨を半分に割ったものだ。日本円にして五百円ほど、アシェリア・ヌ・メネルの物価でも二千円でしかない。

「頼むよ。子供たちが腹減らしてるんだよ」

 娼婦が、すがるような目をする。

 胸が痛くなる。

 先輩に少し待っててと言い残して、ヒカルは娼婦と物陰に入った。

「呆れた」

 すぐに戻ってきたヒカルに、先輩は腰に手を当てて言った。随分と怒っている。

 当然だろう。

 ヒカルは黙ってサンプル袋を見せる。娼婦の毛髪と爪が入っている。春の代わりに売ってもらったのだ。

 呪術を警戒する彼女には、自分には女の体の一部を食べる性癖があるのだと嘘を言った。

 先輩はもう一度、呆れたと言った。その声は随分と優しかった。


 順風の乙女号はエーゲ海を抜け、イタリア半島を目指して一路東へ進む。

 二本のマストに三角の帆がいっぱいに張っている。

 上甲板には、水夫や船長が先輩を囲んでいる。

 帆走の間は、船員たちは比較的することがない。ここのところ、暇さえあれば彼らは先輩の話を聞きたがった。

 先日、戯れに航海士が先輩に自慢気に話したのが始まりだ。

「この船、風上にだって進むんだぜ。驚いたか?」

 中央アジアの貴族を騙っているので、船など見たこともないと思われたのだろう。

「当たり前じゃないですか」

 先輩はそう言うと、手元の野帳にスラスラとベクトル図を書いて、逆風でも帆走出来る仕組みを説明した。

 なんとなく経験で行っていた作業を、理論付けされたことは衝撃的な体験だったらしい。

 すぐに船員たちは先輩に教えを請うようになり、今は経済を教えている。

「例えば、あなた」と先輩は一人の水夫を指名する。

「あなたがアシェリア・ヌ・メネルで一番手に入れたかったものは、なんですか?」

「そりゃあ、宝石です。なあ」

 水夫は周りの顔を見渡す。水夫たちが一斉に頷く。

「じゃあ、実際に買ったものはなんですか?」

 水夫は返答に詰まる。船員たちは、互いの懐具合は極端に秘密主義を取る。嫉妬や盗難を心配してのことだ。

「質問を変えます。この中で、宝石が買えた人はいますか?」

 先輩の質問に、いねえとか、いるわけねえといった声が上がる。

「予算の範囲内で、最大に満足できるものを買う。都市の住人なら、それは正しいと言えます。お腹が空いているのに、上等なパン一欠片しか買えないよりは、粗悪なパンを沢山買ったほうがいい」

 俗語にも古代語にも、消費者に相当する単語はないので、表現は回りくどい。

「でも、商人として考えたら、正しいんでしょうか? 上等なパンを皆が欲しがっているのに、わざわざ粗悪なパンを仕入れている。なんとしても、宝石を手に入れるべきじゃないですか?」

「借金でもすればいいってんですか?」

 水夫の言葉に、先輩は金を借りる方法や利率について尋ねる。

 両替商から金を借りると、水夫身分では担保なしで、太陰月あたり6分の1の利息が普通だという。船長だと組合から借りれば、もう少し安い。 

 単純に教えるだけでなく、船員たちの話を聞くことで、オーシュルージュの経済システムの調査も兼ねている。

 これまでの船員たちの話で、オーシュルージュには原始的な金融システム、例えば銀行家の役割を備えた両替商や、穀物の先物取引や、積み荷の保険などがあることがわかっている。ただ、あまり普及はしていない。

 農業国であるオーシュルージュは、農村的な互助が中心で、頼母子講たのもしこう無尽むじんのような、近親者による金融が大半を占めている。

 船長身分になると組合もあるが、これも閉鎖的で、出自や血縁が重視される。地球では、十一世紀の地中海貿易で活躍した北アフリカのマグレブ商人が同じ仕組みを採用していた。彼らは厳密なルールよりも、信用と縁故により強力なネットワークを作り、ジェノヴァ商人と地中海の覇を争った。

 このシステムでは、両替商のネットワークにコネもない水夫たちが法外な金利を請求されるのは当然と言える。

「じゃあ、宝石を買うための組合を作りましょう」と先輩が言う。

 船員たちが資金を出し合い、組合を作る。出資には証券を発行して証拠とする。組合は船員たちの誰かを指名し、宝石の買付を行う。利益のうちから、買付を行った船員に報酬を出し、残りを出資に応じて分配する。より多くの利益を得たければ出資金を増やすか、誰かの証券を買い取ることが出来る。

 株式会社と同じ仕組みだ。船員たちは、いまいち腑に落ちないようだ。

「誰かが金や宝石を持ち逃げしたら、どうするんですか?」

 怪訝な顔で水夫が尋ねる。

「約束で縛ります。持ち逃げした場合の罰、紛失した場合の罰を全部紙に書いて決めておくんです」

「でも、俺たち字が読めねえんです……」

「あなたは読み書きできますか?」

 先輩の言葉に、船長は俗語ならできると言った。随分と乗り気なようで、船員たちに参加を呼びかける。

 商人の勘でいち早く旨味に気づいたのだろう。船主で荷主でもある船長は、交易のたびリスクとコストを背負っている。沈没や海賊に怯え、船員たちの賃金も払わなければならない。しかし株式会社方式なら、出資金以上のリスクもコストもない。もっと言えば、航海の必要すらない。別の船で交易しても、配当は得られる。

 地球では最終的にマグリブ商人は、法と契約を重視するオープンな取引を採用したジェノヴァ商人たちに地中海の覇を奪われる。

 イシュタルにおけるジェノヴァは、順風の乙女号の目的地であり、オーシュルージュの神の宮殿のある場所でもある。

 船員たちのオープンなネットワークは、地球のように地中海を制するだろうか。

 多分、そうはならない。

 地球の中華帝国は、中世において、同時代のヨーロッパより遥かに優れた航海術と資金を有していた。明の鄭和は、大航海時代の百年前にアフリカまで到達した。しかし、現状維持を望む強力で集権的な皇帝は海禁政策を取った。

 神による支配が行われているオーシュルージュも、また同じだろう。船員たちは組合の採用により、個人的には利益を得るだろう。しかしそれは、神による王国というシステムの前では、ほんの小さな漣に過ぎない。

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