第58話 船出の前に

 ヒカルと先輩はダーダネルス海峡のほとりにいた。エーゲ海はすぐそこだ。眼前には、石を組んだ防波堤に囲まれた港がある。

 初夏になり波浪が落ち着いた最近は、一日に数隻の船が到着する。

 ほとんどが貿易船で、ごくたまに、西方の国からの犯罪者や、アシェリア・ヌ・メネルの噂を聞きつけて来る逃亡者たちの船がある。

 西方の一部の民間信仰では、アシェリア・ヌ・メネルは理想郷のように思われているらしい。

 慈愛に満ちた女神が治める国では、黄金が湧く如く採れ、麦は年に二度実り、食べきれないほどのパンがある。

 実情とはかけ離れているが、そういった噂を頼りにやってくる人々にも、アシェリアは別け隔てなく無料のパンを提供していた。

 ヒカルは、アシェリアの善性が少しでも理解されていることを誇りに思った。


 ゆっくりと、背の低い船が入港してくる。多くの櫂と、二本のマストがある。接岸のため、符丁じみた号令に合わせて、櫂が一糸乱れぬ動きをする。

 この操船技術の高さは、たぶん当たりだ。

 係留された船から、次々と荷が下ろされる。役人が中身を確認して、帳簿上の価格を決めていく。額面の一割が関税になるので、船長が役人に賄賂を渡して税額を下げて貰おうとするのが日常的な風景だ。

「何度見ても、馴染めないですね」と先輩は眉をしかめる。

 ヒカルは曖昧に笑った。

 港の役人は神殿で働いている人々と違い、神殿政府が直接雇用しているわけではない。給料もなく、この賄賂が彼らの生活の糧と港の運営費となる。

 前近代的なシステムだ。アシェリアは政治機構の近代化を図ろうとしているが、手が回っていない。

 役人との交渉が終わった船長に話しかける。

 案の定、イタリア半島の船乗りだった。

 イタリア半島は、オーシュルージュ王の直轄領となっている。地中海沿岸一帯に広がる属領からの租税は、海路でイタリア半島に集められる。必然的にイタリア半島の船乗りの操船技術は高い。

 ヒカルと先輩は、カンピ・フレグレイまでの旅程を立てようとしていた。

 陸路の場合、バルカン半島経由でイタリア半島を目指すことになる。

 市の商人たちによれば、過酷な道だという。オーシュルージュは封建制らしく、小領主の封土をいくつも通過しなければならない。

 農本主義のオーシュルージュでは、領民の移動を良しとしない。通行にはいずれかの領主の許可証と、通行税が必要になる。

「あんたたちの顔とアシェーリア訛りじゃ、怪しまれて捕まるのが目に見えている」と商人は言った。

 ヒカルたちが地球に送った生体サンプルの分析では、オーシュルージュではY染色体ハプログループのIJ系統が多いことが確認されている。日本に多いOやD系統とは、数万年前に分岐したグループだ。

 Y染色体には顔立ちや皮膚色を決める遺伝子はないが、分岐してからの時間が長ければ容姿もだいぶ異なる。

「それにあんたらの色の白さ、貴族にしか見えんよ。盗賊にとっちゃあ格好の獲物さ」

「そんなに白いかなあ」

 ヒカルと先輩は顔を見合わせた。

 確かにヒカルたちに比べると、イラハンナたちは日焼けしているし、掌もゴツゴツしている。

 結局、中央アジアの貴族を騙ることにした。

 船長によれば、都市メネルには10日ほど滞在予定だ。その間に市で交易品を売り捌き、砂金や毛皮に変える。

 ルビーやサファイアは買わないのかと訊いたが、非常に高価で手が出ないという。そのぶん手に入れられたときの利ざやは大きく、指の先ほどの大きさのものをオーシュルージュに持ち帰れば、船と積み荷全てを合わせた以上の価値となる。

「やば……」

 先輩が呟く。目が怪しい。

「何考えてるんですか」

 ヒカルは小声で掣肘する。おおかた、コランダムの合成法にでも思いを巡らしていたのだろう。

 ルビーもサファイアも、鉱物としては酸化アルミニウムの結晶コランダムでしかない。例えばルビーは、酸化アルミニウムに酸化クロムを混ぜて加熱すれば、地球のキッチンでも合成可能だ。

 ヒカルと先輩はイタリア半島まで乗せてもらう交渉をする。

 自分たちは東方の王に連なる貴族で、兄妹である。新たに家を興すにあたり、西方を見て回る旅をしている。ひいては西方最大の国であるオーシュルージュにどうしても渡りたい。

「よくそんな嘘がペラペラ出ますね」

 先輩が日本語で呆れたように言う。

 船長はしばらく考えたあとに、

「一人あたり、一等砂金モキエルでどうだ?」と言った。

 キエルは重量の単位で、グラムに近い。モは十進法に換算すると18だ。

 一等砂金は砂金のうち、金の比率が九割を超えているものを指す。自然金はだいたい銀との合金だが、砂金はよほどでないと金含有量九割を下回ることはない。人工的に銀の含有量を高めた砂金を製造する者がいたので、そういう分類が生まれたのだろう。

 金をベースに日本円に換算すると、十五万円くらいだろうか。

 高いのか安いのかもわからないが、出せない額ではない。

 船長の案内で船内を見せて貰う。

 上甲板には、荷降ろしを終えて上陸許可を待つ水夫たちがひしめき合っている。先輩に好奇の目を向ける水夫たちを無視して、梯子を伝って船倉に下りる。

 三層に別れた船倉のうち、上層は櫂を漕ぐためのスペースと水夫の寝室、中層は船長室や高級品のスペース、下層は雑多な品物のためのスペースとなっている。

 ヒカルたちには、船長室の脇の二畳ほどの部屋が割当てられるという。

 正直に言って狭い。ヒカルは耐えれるが、先輩はきついんじゃないかと思う。

 逡巡する二人に、船長は随分と熱心な売り込みをかける。この部屋を使った、何人かのオーシュルージュの貴人たちの名前が上がる。彼らも封土と王宮との往復に、この部屋を使ったという。

 先輩が男装するなら、一人十六グラムの砂金でいいと、頼んでもいないのに船長が値を下げる。

「先輩、無理して行かなくてもいいですよ。僕一人で大丈夫ですから」

 考え込む先輩にヒカルは声をかける。

「だいじょうぶ……」

 先輩は絞り出すように声を上げた。「行きます……」

 決意した先輩の行動力は、いつも目を見張るものがある。先輩は一度決意すると、躊躇しない。

 先輩は船内での待遇についての交渉を行い、一人十六グラムの船賃に食事を含めることや、規律を徹底させること、帰路の船代を同じにすることまで船長に納得させた。

 その頭の回転の早さと巧みな俗語の話術に、船長は最後には先輩を尊敬の目で見るようになっていた。

 二人は、一旦都市メネルに戻る。

 都市メネルと港は二キロほど離れている。その道は灰っぽい舗装がされている。水酸化カルシウムと土を混ぜたものだろう。

 あとに、荷車を引く二人の船員が続いている。

 荷車には神殿政府への贈り物や、先輩へ船長が個人的に贈ったワイン樽が載っている。

「ワインなんて貰って、どうするんですか?」とヒカルは尋ねた。

 地球のワイナリーで見るものよりは小さいが、ワイン樽は二人がかりで持ち上げるのがやっとなほど大きい。

 一人で飲むには多すぎる。

「ほら、もうすぐ半年じゃないですか」

 ヒカルはようやく思い当たる。ヒカル達の任期は一年だが、自衛隊の施設課は、半年ごとに半分が入れ替わる。

 彼らのために、先輩はささやかな送別会を開催しようというわけだ。

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