第57話 瑞穂なき島々
春が来て、真っ赤なアネモネが咲き、バラの蕾が開き、オリーブが白い花をつける。イシュタルに来て、五ヶ月が経とうとしていた。
ヒカルとアシェリア、先輩の三人は神殿の前で手を繋ぐ。
これから、日本の姶良と支笏の二つの火山に向かう。
今までの調査で、5万2千年前から2万6千年前の間に、地球とイシュタルが分岐したことがわかっている。二つの火山が大噴火を起こしたのは、支笏が4万4千年前、姶良は3万年前だ。今回の調査で、更に年代を絞り込めるはずだ。
日本行きは、ヒカルと先輩のどちらが同行するか、なかなか決めることが出来なかった。二人とも、イシュタルでの日本をどうしてもその目で見たかった。
三人で行こうと言い出してくれたのはアシェリアだ。
「大丈夫。今の二人となら感覚を共有出来る。かなり上空まで昇っても、ほとんど力を消耗せず守ることができるよ」と彼女は言った。
目標高度は1万5千メートル。成層圏だ。この高度なら1千5百キロ以上見通せる上に、ほとんどの神が昇ってこれない。
「もしかして、アシェリアちゃんって、かなり力のある神様なんですか?」
「まあね。戦いは得意じゃないけど」
アシェリアは平然と言った。
今回、ヒカルは通信機を背負っている。梶たちとの連絡用の短波無線機だ。ごくシンプルなもので、地球では混信して使い物にならないレベルだが、電波の利用がまるでないイシュタルでは、地球の裏側とも交信できる。
オーシュルージュを警戒してのことだ。冬の間にオーシュルージュの神が二度、
オーシュルージュが現れたら、すぐさま森に戻る。
上昇中に発見されることを避けるため、上昇にも瞬間移動を使う。
地形を目印にできる水平方向の瞬間移動と違い、上下方向の瞬間移動は難しい。目標となるものがないからだ。
ただ、地球の知識があれば、なんとでもなる。
狙うのは、
アシェリアが白く光る。繋いだ手を通じて、三人は同じ輝きを放つ。アシェリアと聴覚を共有したときの感覚が、再び蘇る。悲しみと優しさに満ちたアシェリアの心、貪欲さと不安が火花を散らすような先輩の心を感じる。
自分の心は、二人にはどう映るのだろう。先輩もアシェリアからも、不快感は感じられない。
安心して、空を見上げる。
青空に、刷毛でさっと引いたような雲が浮かんでいる。かなり不明瞭で薄い。巻雲でも高度の高いほうだ。間違って青空に飛んでしまわないよう、雲に意識を集中する。
空の青さは、50キロ以上上空の、中間圏で起きているレイリー散乱という現象によるものだ。
青に意識を奪われると、中間圏に瞬間移動してしまいかねない。さらに僅かではあるが、月や星も見えている。そこまで瞬間移動出来るかはわからないが、もし瞬間移動してしまえば、二度と帰っては来れないだろう。
ヒカルは巻雲の一点を見つめる。
次の瞬間、三人は空の上にいた。高度計は1万2千メートルを指している。更に3千メートル上昇する。
あとはひたすら、ユーラシア大陸を東に突っ切る。一瞬で黒海を抜け、カスピ海を置き去りにし、タクラマカンとゴビの砂塵を見下ろす。ここで進路を北に向け、シベリアのタイガに至る。
華北平原、いわゆる中原を突っ切ることは流石に避けた。千年以上前のアシェリアの経験では、強大な帝国があった。相当に強い神がいるはずだ。いくら成層圏まで上昇しているとはいえ、リスクは避けたい。
ユーラシア大陸の東端から、海を隔てて陸が見える。北側が樺太、南側が北海道だろう。
北海道上空に到着すると、徐々に高度を落として様子を伺う。
針葉樹と広葉樹の混ざった森が広がっている。木々は大きく、人の営みはあまり感じられない。
支笏火山は札幌の南、40キロほどのところにある。
地図を思い浮かべる。小樽、石狩、札幌が広がっているはずの場所には、何もない。
ふと、感覚が自分だけのものに戻っていることに気づく。アシェリアが意識の共有を解いたのだ。
「調査したい場所を指示して。そこに向かうから」
アシェリアの言葉に、ヒカルは南を指した。
石狩平野上空をゆっくりと飛翔しながら、支笏湖に向かう。
眼下には茅葺きの集落が見える。集落には、ほんの小さな耕地しかない。食料のほとんどは、
平和な社会なのだろうと、ヒカルは思う。
支笏湖の北側で、谷沿いに新しい地すべりの跡を見つけた。地球では札幌軟石と呼ばれる、支笏カルデラが出来た際の溶結凝灰岩の露頭だ。アシェリアの手助けで宙に浮いたまま、炭化した木片と溶結凝灰岩のサンプルを採取する。
支笏湖は地球では8の字の形をしている。4万4千年前のウルトラプリニー式噴火でOの字のカルデラが形成され、その後南北に三つの火山が出来たため、そのような真ん中を絞ったような形になっている。
イシュタルでの支笏火山は、上空から見ただけでも、噴火史が異なることがはっきりとわかった。Oの字のカルデラの形は地球と変わらない。しかし湖の真ん中で3つの火山が繋がり、水面は東西に分かれている。
これで、イシュタルと地球の分岐は、4万4千年前から2万6千年前までの間に絞られる。
北海道の西側は、羊蹄山や洞爺湖など数万年以内に噴火した火山が多い。噴火史を比較できるよう、上空から写真に収める。
次の目標地の姶良は九州にある。桜島と言ったほうが馴染み深いかもしれない。
北海道を後にした三人は、本州の太平洋側を進む。少しでも日本列島を観察したいというヒカルと先輩の希望によるものだ。
陸の近くを進むのは、神のことを考えると得策ではない。それでもアシェリアは黙ってヒカルたちの願いを聞いてくれた。
本州にも都市のようなものはない。水田も見当たらない。平地部の利用が殆ど無いのだ。
理由は、仙台平野の上空に着いたときにはっきりとわかった。
幼い頃から見知った地形ではない。仙台湾のなだらかな弧を描くような海岸線は、地球より、はるかに太平洋に突き出している。阿武隈川や名取川の支流が、網の目のように流路を平野一面に張り巡らせている。
人の手がなく、治水が行われていないのが一目で明らかだ。
「誰も、いないですね……」
先輩が呆然と呟く。
「あれは?」
アシェリアが西を指差す。青葉山、地球では仙台城のある辺りだ。
よほど注意して見ないとわからないが、小さな煙が上がっている。
「あそこまで、行ける?」とヒカルは尋ねた。
「行きたいんだよね。行くよ」とアシェリアは言った。
青葉山の脇を流れる広瀬川が作る扇状地は、地球のものより広く大きかった。雨量が地球より多いのだろうと思う。
青葉山や周囲の段丘の上に、小さな畑が並んでいた。山裾に張り付くように、十軒ほどの小さな集落も見える。集落の周りには手つかずの森も広がっている。
畑には農作業をする人の姿もある。
見つからないよう、森の陰に降りてそっと歩いて近づく。
「たぶん、ここには神はいない」とアシェリアは言った。
アシェリアのような例外的な存在を除いて、人口と神の数と力は比例する。強い国には強い神が必要なのだ。
畑にはイネ科のほか、ナス科やマメ科の作物が植えられている。家畜の姿はない。
ごめんなさいと心のなかで小さく断って、葉のサンプルを採取する。
アシェリアも見たことのない作物が多いという。ヒカル達は尚更だ。栽培作物は選抜育種により、別種に見えるほど形態を変える。
植物が素人のヒカル達は、サンプルを地球に送って同定してもらう他ない。
輪作だろうか、刈り取られたままの畑もある。近づいてみると、稲株に見える。
アシェリアによれば、稲で間違い無い。ユーラシアを横断したときに見たことがあると、彼女は言った。
イシュタルでは多年生の稲を、水田ではなく畑で栽培するのが普通らしい。
半信半疑だったが、稲のサンプルも採取する。
化学肥料の存在しない近代以前の農耕では、水稲の面積あたりの収量は小麦などの他の作物を圧倒する。日本が、狭い国土で多くの人口を養えた理由だ。
イシュタルの日本列島では水稲栽培が定着せず、人口を増やすことが出来なかったのだろう。
水田が必要ないのなら、低湿地の平野部を治水し、干拓する必要性はない。
仙台のあとに通過した関東平野や濃尾平野でも、同じようだった。人々は山裾や台地の上に小さな集落を作り、漁労や狩猟採集と農耕を組み合わせた暮らしをしていた。
紀伊半島の先端と四国を経由して、九州の南に瞬間移動する。畑には麦だろうか、黄金色の穂が実っている。
九州は比較的農耕が盛んなようだった。家畜や数百軒はある集落も見えた。
姶良の位置を確認するため、再び成層圏まで瞬間移動する。
噴気を上げる二つの活火山が見える。
海上にある一つは、約8千年前に南九州の縄文文化を壊滅させた鬼界カルデラのものだろう。海底火山のため、地球では小さな火山島しかないが、イシュタルではカルデラの形がわかるほど巨大な火山島となっている。
もう一つ、内陸にあるのが姶良カルデラだろう。地球では鹿児島湾の奥に、鍵穴のような形で広がるカルデラだ。
しかし、眼の前に広がる姶良カルデラの大きさは、鹿児島湾より遥かに大きい。
姶良カルデラは、地球で3万年前に形成された。その時にはもう、イシュタルと地球は分かれていたのだ。
分岐の時期は、4万4千年前から3万年前まで限定されたことになる。
更に絞り込むためには、4万年前に大噴火を起こしたカンピ・フレグレイを調査する必要がある。
場所はイタリア半島。イシュタルではオーシュルージュの地だ。
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