第56話 なぜ彼女の森は生き延びたのか

 隣の天蓋の下でアシェリアが眠っている。   

 神殿の中はしんと静まり返っている。

 朝の薄明がアシェリアの間をぼんやりと照らしていた。

 このところ、ヒカルは眠りが浅い。

 アシェリアと薄布一枚隔てたベッドで眠っているからだろうと思う。

 眠れない夜、早すぎる朝、ヒカルはアシェリアのレリーフを何度も眺めた。

 凛とした美しい横顔、戦いに臨んで叫ぶ姿。微かに聞こえるアシェリアの寝息とともに、レリーフと碑文を読む。

 それはアシェリアの神話であると同時に、アシェリアの森イルマ・アシェーリアの起源神話でもあった。

 神話の最初は始まりの日にまで遡る。

 彼女の系譜は、創造二柱に連なっていた。始まりの神の神性を受け継いでいるという。全地の神イシュタルスを名乗るのはそのためだ。ただしアシェリア自身も、それが事実かどうかは定かではない。

 神々の名前だけが記された系譜は、アシェリアを神にしたグリファに辿り着く。

 グリファの記述は若干詳しい。『彼ら』の庇護者にして、『彼ら』の中では唯一、神となったもの、と記されていた。

 古代語では『神の子イラハンナ』はただ人と呼ばれ、『蛇の子メラハンナ』に相当する単語は酷く差別的なニュアンスを含んでいるので、そういう表現になっているのだろうとヒカルは思った。

 グリファからアシェリアへの神性の継承は、簡素な記述に留まっていた。『彼ら』の幼子一人の命と引き換えに、アシェリアは溶けた鉛を飲み、グリファに命を救われて神となった。

 後にヒカルがオーシュルージュの宮殿で読んだものに比べ、アシェリアが辱められたことや、拷問の描写が抑えられている。これも後に知ったが、アシェリアの意向で、蛇の子メラハンナ神の子イラハンナの融和の障害になる、イラハンナへの憎悪を駆り立てかねない表現を削っていたのだ。

 アシェリアが神になったころ、『彼ら』たちは互いに争っていた。種族や部族ごとに争い、負けたものは人に奴隷として売られた。

 アシェリアは『彼ら』たちの争いを嫌い、旅に出た。

 旅装に身を包み、神であることを隠し、オアシスを渡る。懇意になった隊商では歌姫となり、オアシスでは踊り子となった。

 百年をかけてたどり着いた大陸の東の端で、彼女は人の巨大な帝国を目にする。そこでは『彼ら』の住む森はなく、すべてが人の土地だった。獣のような人々は何百年も前に滅んだと、その地の人は言った。

 西へ戻ったとき、『彼ら』の争いはもう終わっていた。争う力もないほど、『彼ら』は数を減らしていた。

 百年の間に、『彼ら』は家畜のような扱いを受けるようになっていた。『彼ら』の暮らしていた深い森は切り開かれ、人の畑が広がっていた。

 そこでは『彼ら』は牛馬とともに鋤に繋がれ、病に倒れれば路傍に捨てられた。

 アシェリアは捨てられた『彼ら』を一人づつ救い、病を癒やして、ともに森で暮らした。

 やがて、各地から迫害を逃れた『彼ら』が集まってくるようになった。残った森は小さかったが、アシェリアたちは荒地に木を植えて森を広げていった。

 部族ごとにバラバラだった『彼ら』の言葉を統一し、古い神話をもとに『蛇の子メラハンナ』という名を与えた。

 森が大きくなるにつれ、神の子イラハンナとの争いも増えた。近隣の国の庇護を受けるために、王の妃となったこともある。しかし、それも長くは続かなかった。小競り合いはすぐに神同士の殺し合いに発展した。

 アシェリアは支配地域を拡大する最初の2百年で、十八柱の神を殺した。

 やがて森は蛇の子メラハンナの楽園となり、神の子イラハンナからは悪魔の森と呼ばれるようになった。

 アシェリアの森イルマ・アシェーリアが、現在のような支配地域を確立したのは9百年前。それ以降も、森を切り開き農地を拡大しようとするイラハンナやその神と、アシェリアは戦い続けていた。

 ときに一人で何千もの軍を殺し、ときに傷つき、何千もの民を喪った。

「一人で戦ってきたんですね……」

 いつの間にか先輩が起きてきていた。

 互いに挨拶を交わす。

 既に日の出を過ぎ、オレンジの光が先輩を暖かに照らしている。

 アシェリアはまだ目覚めない。いくつかの集落で風邪が流行っているらしく、彼女は最近力を限界近くまで使っている。ものを壊すより、治癒は遥かに力を使うと、アシェリアは言っていた。

「ずっと考えていたんです」とヒカルは言った。

「この世界、イシュタルの科学って、十四世紀から十六世紀の水準ですよね。何故、科学革命も産業革命も起きなかったんだろうって」

 地球では十七世紀のヨーロッパで、実験や観察結果が重視されるようになり、科学革命が起き、のちの産業革命に繋がる。

 先輩はしばらく首を捻り、やがて足元を指指した。

「原因は、ここ?」

 たぶん、とヒカルは言った。

 ヨーロッパで科学革命が起きたのは、大航海時代に蓄積された地球に関する知見が、これまでのキリスト教的宇宙観と相容れなかったからに他ならない。

 では何故、大航海時代が起きたのか。アナトリア北西部に興ったオスマン帝国が強大化し、東方貿易が出来なくなったためだ。

 ヨーロッパ人は、経度を測る術すら持たないまま、羅針盤を頼りに西に進んだ。彼らは、容易くにたどり着くだろうと考えた。

 結果的に、ヨーロッパ人はアメリカ大陸を発見する。コロンブスが地球の大きさを遥かに小さく見誤り、そこをインドだと思っていたのは有名な話だ。

 そうまでして東方を目指したのは、十字軍の時代から交易を通じ、東方に香辛料や絹や宝石があることを知っていたからだ。

 しかし、イシュタルは違う。

「東の書の神のまちは随分と豊かでした。その先のインドも。ユーラシア東方、おそらくは華北平原には帝国まである。でも、そこまでだ。かつてユーラシアを横断したはずのアシェリアの言葉は、インドの神には通じなくなっていた。東西の交流はほとんどない」

アシェリアの森イルマ・アシェーリアがあるために……」

 先輩の言葉に、ヒカルは頷く。

 アシェリアの森イルマ・アシェーリアは、千年近く東西の交易路を遮断している。

 メラハンナの社会では、宝石や宝飾品の価値は低く、アシェリア・ヌ・メネルに辿り着く宝石はごく僅かだ。おそらくはボグワートをはじめとする、ボグワート人ボグワーテンシスの集落に退蔵されているのだろう。

 オーシュルージュは東方の宝石も、交易の旨味も知らない。木を切り農地にしたいという、素朴な農本思想的な欲求しか持ってないのはそのためだ。

 アシェリア・ヌ・メネルが見逃されているのも、同じ理由だろう。

 もっと言えば、アシェリアの森イルマ・アシェーリアを千年近く維持できた理由でもある。

 文明の交流の多さが技術の進歩に直結することは、スペインとインカの接触が証明している。スペイン人がインカを滅ぼすときに使った銃や鉄剣や馬は、ヨーロッパの発明や原産ではない。それは平和な交易を通じてだけでなく、オスマン帝国やモンゴル帝国といった世界帝国の出現とともにヨーロッパに衝撃を与えた。

 イシュタルでは、地球と同じように東方で羅針盤や火薬やインド・アラビア数字が発明されても、それがオーシュルージュ与える衝撃はごく小さなものだっただろう。

 だから、オーシュルージュでは科学革命も産業革命も起きず、アシェリアの森イルマ・アシェーリアが近代的な軍に蹂躙されることもなかったのだ。

 しかし、いまやアシェリアの森イルマ・アシェーリアは繋がってしまった。香辛料や絹や宝石よりはるかな旨味と、火薬よりはるかに衝撃のある21世紀の科学と。

「おはよう」

 澄んだ声が、あたりに響く。夜の名残りのような古い敷物や石材の匂いの混ざった空気に、バラの香りが広がる。

 ベッドのカーテンの中で着替えたのだろう。いつもの白いワンピースに毛織物のケープを羽織ったアシェリアがいた。

 その足元に薄氷が広がっているように思える。

 彼女とアシェリアの森イルマ・アシェーリアは、極めて微妙なバランスの上に、かろうじて立っているだけなのだ。

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