第55話 新世界の神とその信仰について

 アシェリアの間は彼女のプライベートな居室でもあり、公的な執務室でもあった。

 ただ、日中はほとんど彼女はいない。彼女はアシェリアの森イルマ・アシェーリアを廻り、メラハンナの願いを聞いていた。

 夕方に戻ってくると、部屋の真ん中に平机を広げる。次々と書類が届けられ、訪問者があり、裁判もここで行われた。

 会議や裁判では、人々は履物を脱いで敷物に座り、アシェリアを中心に車座になった。

 夜は組み立て式の寝台が運び込まれ、寝台ごとに天蓋が張られた。

 アシェリアの客人扱いのヒカルと先輩にも、いくぶん簡素なものだが天蓋付きの寝台が用意された。

 アシェリアはいつも深夜まで机に向かっていて、ほとんど眠らない。

 早朝や眠る前の僅かな時間、ヒカルとアシェリアは人目を忍んで指を絡ませ、唇を合わせた。

「ごめんね。もっと堂々と君と触れ合いたいよ」

 アシェリアは切なそうにヒカルの耳元で囁く。

 二人は秘密の関係を続けている。ヒカルがアシェリアの夫と見做されることを避けるためだ。

 アシェリアの夫は、イラハンナにとっては王と同義となる。王の登場は、せっかく作りつつある都市メネルの政治機構を崩壊させかねない。

 メラハンナの信仰では、事態はもっと複雑だ。すべてのメラハンナをアシェリアの家族と見做す彼らは、彼女の実際の結婚を想定していない。

 やっかいなことに、彼らの信仰は、自然発生的なもので、定められた教義はない。実際に起きたことを、シャーマンがあとから意義付けしていくのだ。アシェリアの言葉や行動は絶対だが、それをどう解釈するかは彼らに委ねられている。

 アシェリアの夫となったヒカルを、彼らがどのように扱うか、全くの未知なのだ。

「もう少し、落ち着いたら……」

「大丈夫。気長に待つよ」

 ヒカルは、アシェリアの肩を抱いて言った。

「ヒカル……」

 彼女はいつも最後は小さくヒカルの名を呼んだ。ヒカルもあわせて彼女の名を呼ぶ。

 ヒカル、ヒカルと彼女は繰り返した。まるで祈りのようだとヒカルは思った。


 日中、アシェリアのいない間、ヒカルと先輩は都市メネルの辻々を巡る。

 あちこちで工事が行われている。

 もともと、このアシェリア・ヌ・メネルは、オーシュルージュからの逃亡者が作ったものだ。

 当初は百人ほどの政治犯が勝手に粗末な神殿を建て、一方的にアシェリアの庇護を求めた。

 それ以来、都市計画など望むべくもなく、ひたすら再開発と拡張を繰り返してきた。

 旧市街というべき中心部は、神殿と住民の居住区がある。

 ここは区画整理的なものが進んでいるのだろう。道は広く、建物は石造りが多い。総じて建物からは、庇のような回廊がせり出している。回廊も瓦を備えた立派なものだ。雨よけかと思ったが、オーシュルージュの襲撃に備えたものだという。上空に神の姿があれば、とにかく回廊の下に身を隠すのだ。

 かつての旧城壁のあとに作られた大通りを挟んで、新市街というべき商業地区が広がっている。

 香ばしい匂いが漂ってくる。共同のパン釜で、住民が輪番で主食のパンを焼いているのだ。

 新市街には水道がまだ行き渡っていないので、パン釜はこのあたりに集中している。

 パンの材料は、神殿政府(ヒカルたちは統治機構のことを、そう名付けた)が提供しているので、住民のみならず、ヒカルのような来訪者でもパンは無料だ。

 小麦のパンとは違い、中まで茶色い。固く焼き上げられ、塩味も濃い。日持ちはするが、冷めると岩のように固く、あまり美味しくはない。

 アシェリアの森イルマ・アシェーリアの狩猟採集民であるメラハンナたちのほうが、豊かな食生活を送っていると思う。

 無料のパンはアシェリアの意向だ。古代ローマのパンとサーカスを彷彿させるが、彼女に皇帝のような政治的意図はない。飢えた人を見るのが耐えられないと、彼女は言う。

 新市街は、百年ほど前に西に城壁を拡張したエリアに位置している。まだそれほど建物は密集しておらず、雑然とした統一感のない建物が並んでいる。

 庇も、下から見ると粗朶を編んだ骨組みの上に、薄い瓦が貼り付けられているだけのものも多い。

 ただ、活気はある。天気が良ければ、毎日、市も立つ。

 市には様々な種類の品が並んでいて、見ているだけでも飽きない。もちろん、観光ではなく調査も兼ねているので、メモと写真を撮りながら歩く。

 イラハンナの店には織物や装飾品、植物の種、石炭などが並び、メラハンナが毛皮や干し肉、干した果物と引き換えている。少ないが香辛料や宝石の取引もある。

 物々交換のほか、砂金での決済や、多少なりだが貨幣も流通している。オーシュルージュのものだという。

 ヒカルと先輩は、折を見ては市の人々と交渉し、生体サンプルを集めた。お礼にインスタント・カメラで撮ったポートレートを渡す。

 アシェリアの客人であることも相まって、二人のことは次第に評判になり、やがて出かけると人だかりに囲まれるようになった。


 そうして手に入れたサンプルや、写真やレポートは、アシェリアがポート・アシェリアの梶たちのもとに送ってくれる。

「何にでもアシェリアって名付けるの、やめてくれないかな……」

 ポート・アシェリアの話題が出るたび、彼女はそうこぼした。


 ヒカルと先輩は、冬の間にいくつかの論文を書いた。

 先輩は都市メネルの戸籍や会計をもとに、記数法について地球との比較研究を行い、脳と数学的な理解との相関について、一連の研究を行った。

 ヒカルはもっと泥臭く、フィールドワークをもとに、ボグワート人ボグワーテンシスの信仰について記載した論文を書いた。

「新世界の神とその信仰について」

 先輩がヒカルの論文タイトルを読み上げる。少し首を傾げている。

「ダメですか?」

「駄目じゃないけど、インパクトがないといいうか……」

 これまで発表した論文の数は、先輩が圧倒的に多い。

「先輩なら、どんなタイトルにします?」

「そうですね……」

 先輩はしばらく考えてから、こう言った。

「その少女は、新世界の神である」

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