第54話 少女の神殿
街の中心の広場にひときわ大きな建物があった。
野球場くらいの広さはある。切妻の屋根があり、入り口には神像がある。
「わたしの神殿」とアシェリアは言った。
「あれ、アシェリア?」
ヒカルは神像を見ながら尋ねた。
神像はまるで先輩のようなグラマラスな体型だ。服装も布を巻いただけのドレスで、右手に槍を掲げている。
ドレスの胸元ははち切れんばかりで、今にもはだけそうだ。
背も高く、顔立ちも二十代に見える。
現実のアシェリアの線の細さとは似ても似つかない。
「言いたいことはわかるよ」
アシェリアは若干不機嫌そうに言った。
神殿の大半は列柱と屋根だけの、オープンスペースのようになっていた。
パラグライダーの着地のように、三人はオープンスペースに斜めから滑り込む。
柱は大理石で、天井にも大理石が使われている。
使われている大理石の質なら、迎賓館赤坂離宮にも引けを取らない。さすがエーゲ海沿いだとヒカルは思う。
迎賓館との大きな違いは、神殿の極端な装飾の少なさだ。
普段のアシェリア自身のシンプルな服装を反映しているように、建物自体の飾り気がほとんどない。まるでモダニズム建築だ。
列柱は削り出した角柱を木材で補強したもので、天井も石のアーチと木材の梁が交差している。圧縮の力に強い石材と、曲げの力にに強い木材の長所を組み合わせているのだ。
中は意外と明るい。内側から見ると、天井には採光のためのガラスが嵌め込まれている。透明度は高くない。外側から目立たないよう、大理石と同じ色に調整しているのかもしれない。
ソーダ石灰ガラス、いわゆる普通のガラスは、シリカとナトリウムとカルシウムがあれば作ることが出来る。これだけ大理石が豊富な地なので、材料には事欠かないだろう。しかし、ガラスの製造には大量の燃料、つまり木材を必要とする。木を切ることが禁忌に近いこの地で、どうやってガラスを作っているのだろう。
「石炭だよ」とアシェリアは言った。
ヒカルはトルコの地質図を思い出す。この近くでも石炭が採れたはずだ。というより、アナトリアではどの地方で石炭が採れる。低品位の褐炭だが、ガラスを作るくらいなら問題はない。
「結構、石炭って使っているんですか?」
先輩の言葉に、アシェリアはかなり、と答えた。
「煮炊き、鍛冶、暖房。ここではほとんどの燃料を石炭でまかなっている」
それほど石炭が採れるのなら、イラハンナとメラハンナの争いをなくせるかもしれない、とヒカルは考える。
人が森を切り開く理由は主に三つだ。一つは燃料の確保。もう一つは木材にし、建築資材にするため。最後は土地を農地にするためだ。
建築資材は、すでに
燃料についても、石炭で解決している。
おそらく農地の確保が一番厄介だろう。見たところ、イシュタルの農業は畑による穀物栽培が中心だ。農法も素朴で、地力に頼ったものだろう。当然、面積あたりの収量は低く、一人を養うのに広大な農地を必要とする。また、豊かになるためには、農地の増大が必須になる。
この制約が、イラハンナが森を切り開こうとする最大の理由だろう。
もし、面積あたりの収穫量を増加させることが出来れば、森を切り開く理由はなくなる。地球においては、石炭や天然ガスを用いるハーバー・ボッシュ法で大量合成された化学肥料が、その手段となった。
そうなれば、当面、
そのことをアシェリアは気づいているのだろうか。そっと表情を覗ったが、そこからは何も読み取ることは出来なかった。
神殿の中央には三つの広間があり、机を並べて百人くらいの人が働いていた。
あまり聖性を感じない。天井が高く、がらんとしているが、銀行のオフィスといった雰囲気だ。男女とも、長ズボンに毛の上着を着ている。
男性が多いが、三割くらいは女性もいる。小柄で銀髪の女性は、
彼らはアシェリアを見ても軽く頭を下げるか、あるいはあえて見ないようにしている。
ひどく実務的な態度だ。
「そりゃあ、実務的な場所だからね」
「神殿じゃないの?」
びっくりしてヒカルは訊ねる。
「神殿だよ。でも神殿だけど、
「え? たったこれだけの人数でこの
先輩は驚いたように言う。
「日常的な決め事は、地区や職業ごとの組合がやってるけどね。役所的な場所はここだけ」
政府は小さく、人は少ないとヒカルも思った。
行政機構を充実させ、外交機能を持たせるとアシェリアは言っていたが、厳しい道のりだろう。
政府機能の拡張には、やはり人材がいないらしい。
「そうすると、教育の充実ですかね」と先輩は言った。
「自前の学校も欲しいんだけどね……。お金も教えられる人もいない」
奥には広間の半分ほどの広さだが、ぐっと荘厳な空間が広がっていた。明かりは極端に少なく、床には敷物が敷かれている。
壁にはレリーフが並んでいた。
近づいてみると、アシェリアの姿が描かれている。外の神像と違い、華奢な彼女の様子をよく捉えている。古代語で碑文のようなものも、刻まれている。
「それ、わたしの神話」
アシェリアは少し気恥ずかしそうに言った。
「そしてここが、アシェリアの間。わたしの家だよ」
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