第53話 冬の間は

 先輩達は三日後に帰ってきた。

 予定より時間がかかったが、別に襲われたりしたわけではない。

「微積分について、教えを乞われまして……」

 先輩は言いにくそうに言った。

 基本的なルールとして、地球の知識をイシュタルに持ち込むことは避けている。

 書の神のまちで、先輩は書記たちに微積分の記法について、いくつかのアドバイスを行ったという。

「あのくらいなら、大丈夫だよ」とアシェリアは言った。

「純粋に数学的な知識を与えただけだから。応用に至るまでには、まだ時間がかかる。それに、わたしたちが一方的に知識を借りるだけというのを、面白く思わないものもいるだろうから、むしろ良かった」

 三人は三日間のことを話す。

 オーシュルージュが現れたことも、アシェリアは驚かなかった。

「話をしたかったな……」

 彼女は残念そうに言った。

「これも見てください」

 先輩がデジカメの画像をタブレットに転送する。

 映し出されたタウポ湖の写真を見て、ヒカルは驚いた。地球のタウポ湖の馬頭の形とはまるで違う。大きさも遥かに大きい。

 近くの露頭の写真では、溶結凝灰岩の上に、数メートルの降下火山灰が重なっていた。

「サンプルを地球に送って年代を測ってみないと断言は出来ないけれど」と先輩は言った。「2万6千年前のオルアヌイ噴火の規模が地球より遥かに大きく、そのぶん1千8百年前のハテペ噴火が小さかった可能性がありますね」


 一ヶ月後に来た年代測定結果は、先輩の予想を裏付けるものになった。

 これでイシュタルと地球の分岐は、5万2千年前から2万6千年前の間に絞られた。

 次は日本の姶良と支笏を調べたいが、あいにく、もう冬になっていた。九州の姶良はともかく、北海道の支笏は雪に閉ざされている可能性が高い。

「春まで調査はお預けかあ……。氷床コアでも採取出来れば、一発なんですけどね」

 先輩はぼやく。

 氷床コアは南極やグリーンランドの氷をボーリングで抜き出したものだ。シーズンごとの雪が年輪のような縞になっているため、過去数万年の気候変動や火山の噴火の調査に使われる。

「しょうがないですよ。二人とも専門家じゃないし、機材もない」とヒカルは言った。

 当然、氷床コアは、古くなればなるほど重みで圧縮されている。縞は不鮮明になり、判読には熟練した技術が求められる。

 二人とも、そういう調査方法がある、と知っている程度だ。


 冬の間、先輩とヒカルはアシェリア・ヌ・メネルで過ごす。イラハンナとメラハンナとの交流拠点のうち、西側の都市メネルだ。

 梶たちに別れを告げる。ポート・アシェリアからメネルまでは5百キロは離れている。アシェリアの力を借りればなんてことない距離だが、それでも心理的な隔たりは大きい。

「雪も降るらしいので、お体に気をつけて」とヒカルは言った。

「心配いらんよ。こっちは燃料だけはたくさんあるんだ。君たちこそ気をつけるんだぞ」

 梶は山積みになった薪を指差す。

 伐採した木のうち、広葉樹は薪に、針葉樹は板材に加工している。針葉樹のほとんどはレバノン杉だ。古代より船や神殿の材料として使われていた。地球ではほとんど絶滅寸前だが、ここでは板材への加工が追いつかないほどだ。

「わたしは一日に一度はここに来るようにする。オーシュルージュのことも気になる」とアシェリアは言った。


 黒海はボスポラス海峡を経てマルマラ海に繋がり、ダーダネルス海峡を経てエーゲ海に繋がっている。

 アシェリア・ヌ・メネルはダーダネルス海峡のアナトリア側にあった。エーゲ海が見える場所でもある。

 三人は都市メネルの上空にいた。

 あたりは森ではない。冬麦だろうか、畑が広がっている。農夫らしきイラハンナが働いているのが見えた。森の切れ目は数キロは向こうだ。

 北アナトリアレーノ・アナトリアの支配地域としては海岸線までらしいが、ここは緩衝地帯のようになっているらしい。

 しばしば、オーシュルージュの国の住人が上陸する。亡命者なら受け入れ、侵略者なら追い払う。その判断は都市メネルに任せてある。

 日本人であるヒカルの感覚では、上陸前に臨検したほうが安心できそうな気がする。あるいはニューヨークのエリス島のように、沖合の島にそういう機能を持たせたほうがいい。幸い、エーゲ海には島影も見える。

 大陸育ちのアシェリアはその感覚がわからない。

 森の切れ目が境界で、何も不安はないという。

「海岸線は入り組んでて長いから、守りきれないと思うよ。地球みたいにレーダーもないし。それよりは神の子イラハンナたちに守ってもらったほうがいい。神の子イラハンナの土地への執着は、凄まじいから」

「豊かな土地ですよね」先輩があたりを見渡して言った。

 都市メネルの他に、村も見える。家はレンガ作りだろうか。アシェリアの生まれた村に比べれば、随分立派だ。

「それに、このあたりは砂金が採れるんだよね」とアシェリアは言った。

 確かに地球でも、アナトリア北西部は古い金鉱山が多い。シュリーマンが黄金の財宝を発掘したトロイアも、この付近にあったはずだ。

 アシェリアは都市メネルに砂金の採掘権を与える代わり、この地域の防衛を担当してもらっているという。

「森の方では蛇の子メラハンナも砂金を採っているけど、熱心さは神の子イラハンナに比べるべくもない」


 上空から都市メネルに入る。城壁に囲まれた、立派な城壁都市だった。

 城壁の周りには空堀も備えている。城壁には屋根があり、ところどころ木製の櫓がある。盾と槍を持った兵士が詰めているようだが、上空からは姿をうかがえない。

 神の襲撃を警戒しているのだろう。

 よく見ると、上空に向けられた、なにかの発射機のようなものある。

「あれ、大砲?」とヒカルは訊ねる。

「地球で言うとロケット砲かな。とても原始的なものだけど。オーシュルージュへの牽制くらいにはなる」とアシェリアは言った。

 まちの建物は石造りが多く、庇のようなものを道に張り出している。その下で市が開かれていた。

 食料品や織物や工芸品などが並べられている。イラハンナが多いが、メラハンナの姿もある。メラハンナの中では銀髪のボグワーテンシスが一番多い。

 人々はアシェリアの姿を見つけると、深々と頭を下げた。

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