第50話 ロゼッタ・プロジェクト

 アシェリアが束ねた紙を持っている。

 書の神のまちで写したものを、地球に送って画像処理してもらい、プリントアウトしたものだ。

 ヒカルと先輩も、同じものを手にしている。

 先輩がビデオカメラのスイッチを入れる。

「ロゼッタ・プロジェクト。十二日目、お願いします」

 先輩の声を合図に、アシェリアが一文ずつ読み上げていく。イシュタルで古代語の習得に使われるテキストだ。

 古代語は、アシェリアが他の神と話すときに使っていた言葉だ。発音にシャやシュなどの拗音が多い。

 まず古代語をそのまま読み上げ、同じ文を日本語に翻訳する。次に、別の二つのイシュタルの言語に翻訳する。

 言語学習の方法としては原始的だが、確実な方法ではある。

 更にこの動画は地球に送られ、イシュタルの言語の研究に使われる。ロゼッタ・プロジェクトという名前はもちろん、ヒエログリフ解読のきっかけとなったロゼッタ・ストーンに因んでいる。

 イシュタルのアシェリアの森イルマ・アシェーリア付近で使われる言語は、大きく分けて三種類ある。

 ひとつは古代語。主に貴族や神を話者とする。漢字のような表語文字を持ち、神話はこの言語で書かれる。

 聖性の強い単語は母音で始まることが多く、拗音を含むといった特徴を持つ。『アシェリア』や『イシュタル』が顕著な例だ。

 地球の言語学者によれば、屈折性があるらしい。ヒカルは詳しくないが、要は英語のような活用や格変化がある。

 例えば『アシェリアの』を表そうとすると、単語自体が変化し、アシェーリアとなる。

 すなわち、『アシェリアの森イルマ・アシェーリア』とは『イルマ』を『アシェリアのアシェーリア』が後置修飾したものだ。

 漢字のように、一字で一語を表す上に、格変化までするので、膨大な文字数を持ち、正確な文書の記述には、専門の書記を必要とする。

 もうひとつは俗語。主にイラハンナが日常会話に使用している。基本的な語彙は古代語と共有しているものが多い。ボグワートの言葉も、この言葉の一種の方言と言える。

 古代語との最大の違いは、前置修飾を基本としているところだ。

 『イル』、『』、『ハンナ』などがこの言語に属する。

 最後は森の言葉アウラ・ニカだ。俗語とメラハンナたちの言語を統合して、アシェリアが作った人工言語だ。

「作った?」

 その話を聞いたとき、ヒカルは驚いた。

「うん。一から作ったわけじゃないけどね。蛇の子メラハンナたちの言葉を聞いて、共通の単語を探したり、足りない言葉を補ったり、文法を整理した。普及するのに百年くらいかかったよ」

 森の言葉アウラ・ニカは、意思の疎通やだけでなく、蛇の子メラハンナのアイデンティティにもなっているとアシェリアは言った。

「これがなかったら、蛇の子メラハンナは纏まらず、守ることもできなかったと思う」

 人種どころか、種レベルの違いまである部族を纏めるのは、大変な苦労だったろうとヒカルは思った。

 そのため、森の言葉アウラ・ニカの語彙は、俗語と共通のものもあるが、メラハンナたちの言葉を強く反映している。

 例えば『森』は、古代語では『イルマ』だが、森の言葉アウラ・ニカでは古代からメラハンナたちがそう呼ぶまま、アウルという。

 俗語と同じく前置修飾され、『アウル』、『』、『言葉ニカ』となる。

 ちなみに森の言葉アウラ・ニカは、声帯の違う種族間のコミュニケーション用に手話が発達している。

 森の言葉アウラ・ニカ自体は、最初文字を持たない言語だったが、後に手話を逆に記号化して文字が生まれた。

 習得も容易なため、ユーラシア大陸のイラハンナの商人の間でも広く通じるという。

「本を読むなら古代語。広く話を聞くなら森の言葉アウラ・ニカ。詳しい話は俗語。このあたりの調査をするなら、最低限、この三つは押さえておいたほうがいいね」とアシェリアは言った。


 言語の習得に加え、火山の調査も続けたいが、ここのところ、アシェリアは忙しい。彼女はこの森に、対外的な国家としての仕組みを整備しようとしていた。


 そのために、イラハンナたちの力を使う。

 森の東西に一つずつ、メラハンナとイラハンナの交易拠点がある。中立地帯と言い換えてもいい。

 そんな大きなものではなく、東側の拠点は森と草原の境界に祭壇があるだけだという。メラハンナとイラハンナ双方が好きな物資を置き、互いに満足したときに交易が成立する。会話はおろか、顔を合わせることもない。

 ヒカルは、そんな奇妙な取引があるものだろうかと思いながらレポートを地球に送った。数日後に届いた返信には、沈黙交易の一種と思われるとあった。

 アシェリアがあてにしているのは、西側の交易拠点のほうだ。

 アシェリアの森イルマ・アシェーリアにすぐ接して、ちょっとした都市がある。エーゲ海が見える場所に港を持ち、常設の市もある。

 例の神の国から逃げてきた犯罪者が作った都市だという。犯罪者といっても、ならず者だけではなく、反逆者の家族や、借金で奴隷身分に落ちた元商人も多く、古代語が読めるものも多い。

 彼らは自治組織を作り、武装し、都市国家のような存在になっている。

 彼らはアシェリアを信仰し、彼女の庇護を受けることで、王権からの独立の根拠としている。

「わたしの神殿もここにある」とアシェリアは、ちょっと気恥ずかしそうな表情で言った。

 この都市については、地球からは一種のアジールであると返信が来ていた。世俗権力から不可侵の場所という意味らしい。

 この都市は俗語で『アシェリア・ヌ・メネル』と呼ばれている。

 アシェリアはこの都市メネルの政治機構を充実させ、外交機能を持たせようとしていた。官僚機構の整備には、内閣府の植村のアドバイスも受けている。

「言葉の学習が終わったら、メネルに連れて行ってあげる。神の子イラハンナの生体サンプルも必要だよね。交渉すればいいよ」とアシェリアは言った。

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