第49話 ひとつだけ、望みがあります


 その夜は、ユーラシア南岸の小さなラグーンのほとりにテントを張った。

 夜間の瞬間移動は難しいためと、神に襲われたときに使った力の回復のためだ。

 海岸まで広がる荒涼とした砂漠を見て、ここなら強い神はいないだろうとアシェリアは言った。

 神の力を使わず、海から歩いて上陸する。

 流れ込む小さな川で身体を洗い、焚き火を起こして服と身体を乾かす。

 夕食はアシェリアが手づかみで捕まえた大ナマズを焼く。

 ナマズを捌くのも、ヒカルのビクトリノックスを使って彼女は器用にやってみせた。

 華奢な見た目とは裏腹に、タフでワイルドな一面にヒカルは驚く。

「人間の頃、そうやって暮らしていたの?」とヒカルは尋ねた。

「どっちかというと、神になってからかな」とアシェリアは言った。「神になって百年くらいは、何をしていいかわからなかった。蛇の子メラハンナは今よりもっと多くて世界中にいたし、蛇の子メラハンナどうしの争いも多かった。わたし自身、守らなきゃって思いも強くなかった。あちこち放浪した話、したでしょ?」

 その話は覚えているとヒカルは言った。

 アシェリアがナマズを焼いた串を手渡してくれる。食べられない味ではないが、泥臭い。

「女の身一つの旅は、楽しかったけど、大変だった。あの頃は、こんなものばかり食べていたよ」とアシェリアは笑った。

 やがて日が落ちる。満天の星空が広がる。ここ何日かの天体観測で、イシュタルの星空は地球と全く同じことが確認されていた。

 二人は星空について話す。

 アシェリアがユーラシアを横断した頃、北極星は今のように不動ではなかった。正確に北を知るには、今日よりもう少し天文の知識を必要とした。当時、知識のなかったアシェリアは、オアシスにたどり着けず死にかけたという。

 ポラリスが常に北を指すようになったのは、ほんの数百年前からでしかない。

 ヒカルは歳差について説明する。要はこの星の自転軸のブレが原因だ。地球でもピラミッドはポラリスと違う北極星を基準に作られ、15世紀くらいまでは北極星は航海においてあまり信用されていなかった。

 ヒカルは星空に円を描く。こと座のベガ、はくちょう座のアルタイルといった星が含まれる。この星たちが、過去、あるいは未来の北極星となる。

 北極星の左隣の暗い星を指差す。

「千年後には、このエライが天の北極に最も近くなる」

「千年か……」とアシェリアは言った。「わたしは、それを見るかもね」

「僕も、君と一緒にそれを見たい」

 一説によると、ホモ・サピエンスは百年以内に死を克服するという。

 更に、地球ではアシェリア細胞の研究が進んでいるだろう。その成果は死の克服を早めるに違いない。しかし、それは漸進的なもののはずだ。

 現代において、平均寿命が伸び、がんで死ぬことがあまりなくなっているように、一歩ずつホモ・サピエンスは不死となる。

 ヒカルが不死と呼べる状態に達するのは、早くとも何十年か先だろう。

「おじいちゃんになっても、わたしはいいよ」

「人の形であれば、まだいいけど」

 不死には、コンピューターの中で、個人のアルゴリズムを再現するような状態も含まれる。

「それはちょっとやだなあ」

 彼女は、ため息のように小さく微笑んだ。「ヒカルのことを、なぜ好きになったか考えていた」

 アシェリアが独り言のように言った。

「なぜ?」

 ヒカルは尋ねる。

 緊張する。自分でも、この美しい女神に好かれる理由がわからない。

「ヒカルの話す時間が、とても長いからだと思う」と彼女は言った。「わたしの生きた時間より長い物語をヒカルは語ってくれる。何万年とか、何億年とか。ヒカルの話を聞いていると、自分がちっぽけな存在だと思えてくる。それがとても心地良い。わたしを縛り付けるものから、解放してくれたような気がする」

 それは地質学的時間スケールと呼ばれるものだ。扱う事象が数億年オーダーの地球科学者は、数万年を一瞬と言う。そこでは千年を生きる神も、百年しか生きられないヒトもあまり大差はない。

「僕みたいな考えの人は、地球にはたくさんいるよ」とヒカルは言った。

「わたしみたいな顔の人も、二つの世界にはたくさんいるよ。きっと」とアシェリアは言った。

「ヒカルのいない世界は、とっても寂しいんだろうな……。ヒカルと会う前、どんなふうに自分が暮らしていたか、もう思い出せないよ」

「なるだけ健康に気を使って、長生きするよ」

「それとも、ヒカルも神になる?」

「簡単には、なれないんだよね」

「そうだね。じゃあ……」

 アシェリアはヒカルの手を取って、自らの首筋に導く。

「わたしを、先に殺してくれる?」

 手のひらの間でアシェリアの命が脈打つを感じる。たまらなく愛おしく、尊く感じる。

「それは……嫌だ」

 アシェリアがヒカルの手を取ったまま、正座のように座り直す。

「ひとつだけ、望みがあります」

「なんですか」

 アシェリアの言葉に、ヒカルもつられて敬語になる。

 アシェリアはヒカルの耳元で小さく言う。

「ヒカルとの子供が欲しい」

 顔が真っ赤になる。見るとアシェリアも耳まで赤くなっている。

 顔をまじまじ見ようとすると、

「見ないで、見ないで」と目を塞がれる。

 ヒカルはアシェリアと詳しく話す。

 それはアシェリアが悩み、考え抜いた上での言葉だった。

 アシェリアは何度か結婚しているが、子供を産んだことはない。

 人間であった頃から、月経もない。

 彼女はそれを、生まれながらに子供を生む能力がないからだと思っていた。

 しかし、地球の知識で考えると、アシェリアの無月経は、思春期までの極端な栄養状態の悪さが原因だと疑われる。

 千年を超えて生きているアシェリアには、卵子も残っていないが、体細胞から卵原細胞を作り出すことが出来るはずだ。

「いつか、必ず……」

 アシェリアが願うように言う。

 ヒカルは彼女を抱きしめる。

「僕が先に死んでも、子供がいれば寂しくない?」

「寂しいに決まっているよ。喪った人を、他の人で埋めてはいけない。けど……」

 アシェリアがヒカルに腕を回す。

 二人は敷いた寝袋に倒れ込む。

「ヒカルとの子供たち、そしてその孫たちが生きているなら、いつまでたってもきっと、世界は素晴らしいと思える」

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