第48話 君って意外といやらしいんだね
見せてもらった本のページを、夕方までかかってひたすら写真に収める。
その夜は、書の神キュエルのまちに泊めてもらう。
大広間で雑魚寝が風習のようで、ヒカルにはあまり熟睡できない夜となった。
翌朝は日が昇るとともに空に浮かび、再びトバ・カルデラを目指す。
美しい造礁サンゴが広がる青いペルシャ湾を南東に進む。地球のペルシャ湾より、生態系としては遥かに健全だろうと思う。
アラビア海に出ると、左手にユーラシア大陸南岸が見える。荒涼とした大地が、インダス川を境に緑に変わる。
インド亜大陸に入ったのだ。
「ここからは、急ぐよ」
アシェリアはほとんど一呼吸ごとに、瞬間移動を繰り返す。十回以上の瞬間移動を繰り返し、五分も経たずにインド亜大陸の南端までたどり着いた。
ここまでのルートは、アフリカを出たホモ・サピエンスが世界中に拡散したルートの一つ、ユーラシア南回りの足跡をなぞっている。瞬間移動の一つ一つが、ホモ・サピエンスが数百年をかけた一歩のように思える。
スリランカ島の南をかすめ、ベンガル湾を東に進む。
やがてスマトラ島が姿を現す。遠目にも都市や、帆船が見えた。
神に見つからないよう、慎重に低空から、まずは中部のマニンジャウ・カルデラを目指す。
上空からカルデラ湖の写真を撮り、火山灰を採取する。カルデラ湖は瓢箪のような形をしている。日本のカルデラ湖だと、北海道の支笏湖に似ているなとヒカルは思った。
次に北上し、トバ・カルデラに向かう。スマトラ島を南北に貫く、スマトラ断層が目印になる。
トバ・カルデラは巨大だった。高度3千メートルでは、全景を写真に収めることもできない。
地球のトバ・カルデラは、全長百キロもの湖になっているが、イシュタルでも同じような形に見える。
湖の真ん中に巨大な島がある。カルデラが形成されたあとに出来た中央火口丘だが、それだけで一つの火山のように大きい。
水面には多数の小さな漁船が浮かんでいた。湖に張りつくように村もある。
「サンプル採取もしたい。もうちょっと、付き合って」とヒカルは言った。
アシェリアは警戒してあたりを見回している。落ち着かない様子だ。
カルデラ湖の周りの盾状の台地で、崖を探す。上空から探したおかげで、すぐに地すべりの跡が見つかった。火砕流が固まった溶結凝灰岩の露頭だった。地層のあちこちに、炭化した木片が含まれていた。放射年代測定は5万年より古いと正確さに欠けるが、サンプル量を増やせばそれを補える。
「ラッキーだよ」ヒカルは木片を慎重に取り出しながら言った。
「これを地球に送れば、イシュタルでのトバ火山の噴火した年代がわかる」
アシェリアはニコニコして、よかったねえと言った。
ベンガル湾を逆向きに進む。既に日が傾き始めている。
ただ、帰りは自転と逆向きに進むので、日没までは四時間程度猶予があるはずだ。
何もなければ、だが。
スリランカ島が視界に入ったところで、アシェリアの表情に緊張が走る。
「待ち伏せされた」
彼女の言葉とともに、目の前に女が現れた。
すらりと背の高い、二十歳くらいの若い女だ。南国の鳥の羽をふんだんに使ったマントを纏い、薙刀のような湾曲した刃の武器を持っている。
その身体は、真っ赤な光を放っていた。
女が何かを言う。聞いたこともない言葉だ。
アシェリアも説得するように何かを言うが、言葉が通じていないようだ。
女は武器を振り上げる。アシェリアがヒカルを庇うように立ち塞がり、彼女の身体が真っ白に光る。
アシェリアは手のひらで刀身を受け止める。
衝撃があり、ヒカルたちと女の双方が後ろに吹っ飛ぶ。激突の瞬間、アシェリアも女に衝撃波を放ったのだ。
「逃げるよ」
空中で体制を立て直したアシェリアはそう言うと、瞬間移動した。
眼下に大地が広がっている。スリランカ島上空だ。
息をつく間もなく、先程の女が瞬間移動してくる。
百キロ以上は離れたはずだ。百キロ先の人影を認識し、追ってきた?
「素晴らしい認識能力だね……」
アシェリアは呆れたように言った。
広大な
「敵意はないから、見逃してくれって言っても、ダメかな」
アシェリアの言葉に、女は無言で武器を振り上げる。
その脇に、二つの人影が現れる。女と同じようなマントを纏った二人の男だった。一人は青年で、もう一人は壮年だ。
明らかに神で、女の仲間だった。
三人は、ヒカルたちを囲むように散開する。声を合わせて聖句か呪詛のようなものを唱えている。必勝を確信しているのが伺える。
「参ったな……」
アシェリアは呟くように言った。
「君だけなら、逃げられる?」とヒカルは尋ねる。
「馬鹿なことを考えるのはやめて!」
アシェリアのこんな怒った顔を見るのは初めてだ。
三人の神が一斉に襲いかかってくる。アシェリアの輝きが増し、三人を弾き飛ばす。
「ヒカルがいなきゃ、わたしだけ生き残っても、意味ないんだよ」
アシェリアはヒカルを握る手に力を込めて、そう言った。
二人は、インド亜大陸を北西に突っ切った。
追ってくる神たちは、インドの各地から上がってきた十柱以上の神と乱戦になり、その隙に二人は逃げおおせた。
アラビア海に抜け、360度水平線しか見えなくなったところで、アシェリアは大きく息をついた。
「少し、休もう」
彼女はそう言うと、ゆっくりと下降する。首筋が汗に濡れているのは、暑さのためだけではなさそうだ。
「島を探したほうが、いいんじゃない?」
ヒカルの言葉に、アシェリアは大丈夫と答えた。
着水する直前、アシェリアはピタリと空中で止まる。
凪いだ海面に、つま先から波紋が広がる。次の瞬間、波が形を残したまま凍りつく。
20メートル四方ほどもある流氷が生まれていた。厚さは1m以上はある。
ヒカルはリュックを降ろして流氷に座る。ひんやりとした感触が心地良い。ジリジリと照りつける熱帯の日差しの中、幻を見ているような感覚になる。
アシェリアは流氷の端に立って、海中を覗き込んでいる。
「何してるの?」
ヒカルは水の入ったボトルを、アシェリアに手渡しながら尋ねる。
「泳ぎたいなと思って」
「服のままで?」
「裸になれってこと? ヒカルって意外といやらしいんだね……」
ヒカルは慌てて水着について説明する。
「いいね。肌を出す服。今度着てみたいな」とアシェリアは言った。
「地球に戻ったら買ってあげるよ」
「約束だよ」
「約束する」
ヒカルは小指を出す。
「なあに、それ」
「指切り。地球での約束の印」
二人は声を揃えて指切りをした。
海に入ろうとしたとき、巨大な魚影が、ゆったりと身を揺らしながら通り過ぎる。サメの群れだ。アシェリアの身長の倍くらいの個体もいる。
こんな沖合にいるのは珍しいが、イタチザメだろうか。見境なく何でも食べようとするため、非常に危険なサメだ。
「あーあ……」
アシェリアが落胆した声を出す。
「アシェリアなら大丈夫じゃないの?」
「神の力を使えば傷つけられることはないけど、それで泳いでも楽しくないよ。気分の問題」
「サメにはロレンチーニ器官があるから、電気を流すと逃げていくかも」
やってみるとアシェリアは言って、手を海水に入れる。サメが集まってくる。一匹のサメがアシェリアの手に触れる直前、くるりと反転した。他のサメたちも四散していく。
「凄いね」
振り返ってアシェリアが笑う。
「凄いのは君だよ」とヒカルは言った。
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