第47話 プロメテウスの誘惑
次に瞬間移動すると、東側に三つの山体が重なり合うような成層火山が見えた。
ノアの方舟が漂着したとされている、アララト山だろうか。
たしか地球では、大アララト山と小アララト山の二つだったはずだ。二つの世界が別れたあと、噴火史に差が生じたのだ。
山容の写真を撮る。
やがて、突如として緑豊かな大地が開ける。ティグリス川とユーフラテス川に挟まれたメソポタミアだ。地球では半ば農業が放棄され、見る影もなく乾燥化しているが、イシュタルではまだ農地となっていた。
ティグリス川に沿ってペルシャ湾を目指す。
村は大きく、都市と呼べるものもある。街道が整備され、隊商も見える。
かなり暑い。ヒカルはパーカーを脱ぎ、アシェリアは水を口にする。
「もう少し行ったら神のいるまちがある。そこに寄りたい」とアシェリアは言った。
ペルシャ湾には、多数の帆船が浮かんでいた。帆の形やマストの数は様々だが、動力船らしきものはない。
造船史には詳しくないが、イシュタルが中世レベルの工業力であることが伺える。
地球科学者として、この地に眠る原油と天然ガスを解放したらどうなるか想像する。中東地域には深さ千メートル以下の油層も多い。人力の上総掘りで到達できる深さだ。地球では、中東で油田が発見されて、百年ほどしか経っていない。
数十年で、この帆船は全て動力船に置き換わるだろう。
神の時代は終わり、科学の時代が来る。あるいは、科学を手にした神の時代が来る。
野心的な性格ではないと自覚しているヒカルにも、その想像は悪魔的な魅力に満ちていた。
「どうしたの?」
握った手に力が籠もっていたらしい。
アシェリアが不思議そうな顔で見つめている。
改めて、この世界で最初に会った神がアシェリアで良かったと思う。
アシェリアにそのことを伝えると、彼女もそう思うと言った。
神の居るまちは、大都市だった。人口は十万に達するだろう。
石積みの防波堤のある港にはびっしりと商船が停泊し、沖待ちをする船もある。整然と配置されたまち並みには、三階建ての家屋が建ち並んでいる。仮設のテントを張っているのは市だろうか。
行き交うのはイラハンナだ。人々は暑さ避けか、ターバンのようなものを巻いている。現代の地球にもありそうな風景だ。
上空から、まちの中央の広場に向かう。
このあたりの建物には、ルネサンス期のような繊細な飾り立てがされている。地球でいう官公庁街だろうか。建物の大きさの割に、雑踏はそれほど多くない。
降り立つと、あたりが更にしんと静まり返る。
正面のひときわ大きい建物に向かって、アシェリアが口上のようなものと、名乗りを上げる。
通りの良い声があたりに響く。
大きな建物だ。教会のようなドーム状の屋根がいくつも見える。中心には尖塔がそびえ立っている。
聖性に属する建築物だろう。
文化や建築にも、異なる生物種が似た環境では似た形態に進化するのと、同じような現象があるのかもしれない。
しばらくして、建物から法服のような長衣の男女が現れる。彼らはベールのようなもので視界を遮っている。
「高位の神官だよ。顔を上げないでね」
アシェリアに言われて顔を伏せる。この地域の礼法では、貴人を直接見るのは失礼にあたるという。
神官が何かを吟ずる。リズムが独特だ。聖句のようなものだろう。
神官に先導されて建物の奥に進む。アシェリアには勝手知ったる場所のようで、歩みに迷いがない。当たり前だが電気もなく、あたりは暗い。燭台に揺らめく炎だけが頼りだ。
大広間のような場所に、一人の老人が待っていた。ソファか寝台のような白い台に横たわっている。
彼がこの地の神だ。書の神キュエル。弾圧から書を守り、神となった。
アシェリアは三百年来の付き合いだと言っていた。
尖塔の真下だろう。高い天井に、自然採光がふんだんに取り入れられ、ここだけ明るい。
老人は親しげな笑みを浮かべる。
別に体調が悪くて臥せているというわけではなさそうだ。
部屋には十個の寝台が、円を描くように配置されている。
アシェリアは老人と対する場所に、ヒカルはその隣の寝台に寝転がる。
神官が飲み物と、果物や肉類の乗った盆を持って現れる。
肉厚のガラスでできた器に入った飲み物を口にすると、ビネガーとサングリアの中間のような飲み物だった。
ぬるいが、さっぱりとしていて心地よい。食べ物は手づかみで食べ、寝台のシーツで手を拭うのが風習のようだ。ヒカルもそれに倣う。
アシェリアと老人はしばらく話を弾ませ、ヒカルは横たわったまま、それを目の端で眺めていた。老人からアシェリアへの親しみと、敬意を感じる。
三十分ほどで話が終わり、ヒカルはアシェリアに手を引かれる。
老人の身体が浮かび上がる。アシェリアがそれに続く。
「何を話していたの?」とヒカルは訊いた。
「安全保障について」
アシェリアは真面目な顔をして言った。
尖塔の屋根に空いた扉から、このまちにそびえ立ついくつもの尖塔が見えた。
老人の姿が消え、五百メートルほど離れた尖塔の脇に現れる。
この尖塔群の意味を理解する。神専用の目印であり、駅なのだ。
瞬間移動して訪れた場所は、図書館か資料庫のような場所だった。テーブルが並び、幾人もの文官が資料を書き写している。奥に書庫も見える。
老人がここの長らしき法服の男を紹介してくれる。アシェリアが何かを注文する。
老人はアシェリアに別れの挨拶のようなことを言うと、再び浮かび上がり、消えた。
長も書庫に消え、二人は長椅子に並んで座る。
「図書館、だよね? ここ」ヒカルは尋ねた。
「うん。本を見せて貰う。わたしの森の近くにも人間のまちはあるけど、ここの資料には到底及ばない。さすが学問の神だけはあるよ。神話とか、手習い本とか。必要でしょ?」とアシェリアは言った。
すごく助かるとヒカルは言った。
「そういえば、さっき何を話していたの? 安全保障って?」
「平和は剣によってのみ守られる」
アシェリアは自分の手をじっと見つめて言った。
「アドルフ・ヒトラー?」
「そう。以前のわたしもそう考えていた。他の神を信用せず、ただ力によって、森と
「今は違うの?」
「
「アルベルト・アインシュタイン」とヒカルは言った。
アシェリアが頷く。
「だから、わたしも対話してみることにした。多くの神、そして地球とも。まずは知っている神から、決して戦わないこと、困難なときには助け合うことを約束することにしたよ」
良いことだと思うと、ヒカルは言った。
「でも、なんで僕を連れてきたの?」
「頼みたかったから」
アシェリアが顔を上げて微笑む。
「もし、わたしに何かあったときのために、ヒカルのことを頼みたかった。何があっても、ヒカルだけは死なせない。約束するよ」
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