第46話 彼女の生まれた土地

 世界地図を広げて、インドネシアのトバ・カルデラまでのルートを考える。

「なるだけ海の上を通りたい」とアシェリアは言った。

 陸地には神の子イラハンナたちの国がある。そこが神の治める国であった場合、無断で別の神が現れるのは、宣戦布告に等しい行為になるという。

 無理もないとヒカルは思う。神の力はイシュタルでは圧倒的な力だ。

 地球で言うと、いきなり核兵器が持ち込まれるようなものだ。

 いきなりその土地の神に襲われる可能性も、考慮しなければならない。

「ただ、あまりに海の上だと感覚が狂う。自分がどこにいるかわからなくなる。わたし一人なら、高度千キロくらいまで昇って位置を確認できるけど、さすがに誰かを連れてそこまでは昇れない」

 高度千キロは十分に宇宙だ。地球では低軌道の人工衛星が回っている。

 ここまで昇れば、確かにGPSなどなくとも、地球のどこからでも地形を認識して帰ってこられる。

 アシェリアは高度千キロでも消耗しないが、同行するヒカルたちを守るために、余計な力が必要になる。消耗しきったところを、土地の神に襲われてはひとたまりもない。

「同行は一人ですね」と先輩は言った。「ヒカルくんが行くといいですよ。今回はあたしは見送ります」

 前回、高度3千メートルくらいまでは、あまり守られている実感がなかった。それ以下の高度で、アナトリアからインドネシアに至るルートを探す。

 高度3千メートルの見通し距離を先輩が暗算する。見える範囲は、約2百キロ。これが地平線となる。

 陸地からこの距離以上離れなければ、地文航法の要領で、地形から現在位置を確認できるはずだ。それを瞬間移動のたび行う。

 まず、アナトリアから海に至るために、イラクを抜ける。

「ここを治める神は、昔から知っている。割と好意的だよ」

 アシェリアはイラクを指して言った。

 ペルシャ湾に出たあとは、ユーラシア大陸南岸を左に見ながら、インド亜大陸南端を目指す。

「なるだけここの神とは会いたくない」とアシェリアはインドを示す。

「昔から、随分と強い神が多い。考え方もわたしたちと違う」

 ヒカルはインド神話に考えを巡らせる。たしか、現世利益をもたらす神と、宇宙を司る神に分かれていたはずだ。まるで地と天の神のようだと思う。

 インド南端に辿り着くと、スリランカ島南端に瞬間移動する。そのあとは、一路、方位磁石を頼みに東を目指す。インド洋を2千キロ進むと、トバ火山があるスマトラ島が見えるはずだ。

 トバ火山のほかに、同じスマトラ島で5万2千年前に大噴火を起こしたマニンジャウ・カルデラも調査したい。

「島が多いね……」

 アシェリアはスマトラ島周辺を見て呟いた。

「こういう場所に意外に強い神がいたりするから、油断しないで」


「行こう」

 アシェリアがヒカルに手を伸ばす。

 ヒカルは手を握り返す。リュックのベルトが軋んだ音を立てる。

「行ってらっしゃい」

 先輩が小さく手を振る。「気をつけてくださいね」

「先輩も、気をつけて」

 ヒカルは、宿営地を遠巻きに囲むメラハンナたちを見ながら言った。

 アシェリアが事情をあらかじめ伝えてあるので、彼らが襲ってくることはない。その代わり、ボグワートの人々の他にも、様々な部族が珍しいものでも見るように集まっている。

 ヒカルとアシェリアがトバ火山の調査をしている間、先輩はここに残って、ひたすら彼らの生体サンプルを集める。

 このひと月、ヒカルは『森の言葉アウラ・ニカ』を先輩に伝えた。ボグワートの言葉もエミルたちに教わって、簡単な内容なら話せるようになっている。

「大丈夫ですよ。知らないとこに馴染むの、得意なんで」

 先輩が笑う。

 十六歳で大学に入り、彼女はずっと未知の世界で生きてきた。その自信が笑顔に込められている。

 アシェリアとヒカルの身体が浮かび上がる。微かに身体が光る。

 自衛隊員が手を止めて見上げる。メラハンナたちには、拝んだり祈りを捧げているものもいる。

 樹冠の天蓋を抜けると、視界が一気に開ける。

 下を見ると、先輩の構える望遠レンズがキラリと光った。

 アシェリアと背中を合わせ、ゆっくりと昇っていく。

 前回、二人を襲った神を警戒する。

 彼の国は、北アフリカからヨーロッパの地中海沿岸に広がっている。結構な一大帝国だ。領土だけなら、北アナトリア国など及びもつかない。ただ、イシュタルの国は、版図が必ずしも確定しているわけではない。彼の帝国の中にも、いくつもの少数部族や勢力があるという。

 黒海を左手に見ながら、瞬間移動で東に進む。たしかにアシェリアの言うとおり、十回も瞬間移動すると、自分がどこにいるかわからなくなる。

 黒海の東端が見える頃、進路を南に変える。すぐに森は終わり、高地性の草原が広がる。

 あたりの標高は、高い場所で2千メートルを超えるだろう。

 牧畜集落だろうか。傾斜した地面にへばりつくように定住民の小さな村が見える。

 もはやここは、イラハンナの土地なのだ。

「わたしが生まれたの、このあたりなんだ」

 アシェリアが小さく言う。

 冬の厳しそうな場所だ。育つ作物も少ないだろう。

「故郷の村はもう何百年も昔に滅びたし、今では目や肌の色も違う人の土地となった。それでも、この景色は千年たっても、あまり変わらない」

 彼女はしばらく地上を見下ろしていた。その表情は懐かしんでいるより、ひどく悲しげに見えた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る