第43話 イシュタルへ
翌日、ヒカルと先輩は車で十和田に送ってもらう。
黒塗りの高級車でなく、実用的な銀色のライトバンだ。
アシェリアは静岡で自衛隊の演習を視察している。
時代遅れの棍棒外交ではないか、との総理への記者の質問に、アシェリアは「こなたのたっての希望である」と答えた。
十和田湖岸には内田と、自衛隊の梶が待っていた。
イシュタルでのワーム・ホール観測装置の設営と運用は、陸上自衛隊の施設科が引き続き担当する。
指揮官は再び梶だ。迷彩服を着ている。
十和田の観測装置の設置も、梶の部隊が行ったという。
新世界に派遣されるのは、梶を含めて16人。前回のメンバーがほとんどだ。
「あんな目にあったのに、怖くないんですか?」とヒカルは聞いた。
「怖いさ。だが少なくとも、前回よりは不安はない。ワーム・ホールは安定して出現することがわかってきたし、なにより新世界には信頼できる女神がいる」
梶は体を捻って肩先を見せた。地球を背景に女性の横顔が描かれたワッペンが、貼り付けられている。その姿は、アシェリアの特徴をよく捉えている。
「うちの部隊章」
梶は、ちょっとはにかんだ笑顔を浮かべた。
アシェリアは恥ずかしがるだろうなと、ヒカルは思った。
御倉半島の付け根付近は樹が切り倒され、はげ山のようになっていた。広さは1平方キロメートルあるという。規則的にいくつもの櫓が組まれ、センサーが載っている。
基本的な装置の構造や運用方法は、あらかじめ理解しているが、実際に見ると壮観さに驚く。
内田の案内で隅のプレハブに入る。
大量のパソコンにモニター。雑然と置かれた紙束。観測装置の制御と、データ集積を行う場所のようだ。
五人の男女のスタッフが働いている。研究者員やエンジニアだろう。
「制御室だ。ここは前線基地といった所でね。分析、研究は三沢基地を間借りして行っている。いずれは、研究機能もこっちに持って来たいんだがね。いつになるかわからんのが正直なところだ」
「政治的介入というやつですか?」
「君も察しがよくなったな」と内田は言った。
「米国が一枚噛みたがっているらしい。詳しくは知らんが。まあ、そんなことはどうだっていい」
内田は一人に指示を出す。手近なモニターに、シンプルな地図が映し出される。
そこにいくつもの点が重なる。
「24時間ごとのワーム・ホールの出現分布だ。点の色の濃いものほど、大きなワーム・ホールだ。まだ一週間分しかないが、見てくれ」
画面の下にN=2,128などと、その日出現した総数も表示される。
出現場所も、出現個数も、大きさも日によってまちまちだ。この一週間で、最大で直径1m程度のものが開いていた。
たしかに出現パターンを、簡単な単振動の波で表現出来そうにない。
「ベイズ的手法は試しましたか?」と先輩が言う。
確率は先輩の専門だ。一人のスタッフが振り返り、先輩と議論が始まる。明らかに彼は数学者だ。議論の内容は、ヒカルはおろか、内田にも理解できないらしい。
数学には、天才と数学者にしか理解できない領域が存在する。
先輩は数学は美しいという。多くの数学者が同じことを言っている。
多分ここは、アシェリアにも立ち入れない領域だ。
数学を理解できる能力も、ホモ・サピエンスに特有のものだ。これは国家や複雑な芸術を理解できる能力と同じく、7万年前に脳の変化によって獲得された。この変化によって、ホモ・サピエンスは確率や、ミクロの世界や、モニターの向こう側を認識できるようになった。
同じホモ・サピエンスなのに、先輩には理解できて、自分には理解できない領域があるのはなぜだろう。
おそらく自分には使いこなせていない、あるいは別のことに使っている脳の神経システムがある。
アシェリアの力も同じかもしれないと、ふと思う。
認識の拡大に伴い、彼女の力の及ぶ範囲も拡大している。つまり彼女の力は、脳の神経システムに対応している。
もしかしたら彼女たち神こそ、ホモ・サピエンスの能力を使いこなす、真の意味で
後に、ホグワートの人々の研究が進み、
その説ではヒトは、ホモ・サピエンス・サピエンスとなる。
一方アシェリアたち神は、
一生の途中で学名が変わるなど、分類学の常識ではありえないことだ。
しかしこの説は研究者以外で爆発的に盛り上がり、いつしかデウスは神を指す言葉として定着した。
「有意義な時間でした。ありがとう、肉丸さん」
数学者が先輩に握手を求める。
「アヤでいいですよ」
先輩はそれに応える。
梶がプレハブに入ってくる。
「女神が到着しました」
「ちょうどいい、こちらにお呼びしてくれ」
「こちらにお呼びします」
梶は復唱して部屋を出ていく。
しばらくして、アシェリアが梶に先導されて現れる。
内田が一通り観測システムの説明をする。写真パネルや動画もあり、随分準備がいい。視察に来る要人も多いのだろうと、ヒカルは思う。
「これは休むことなく、絶え間なく動き続けるの?」とアシェリアは尋ねた。
「メンテナンスの必要はありますが、基本的には絶え間なく稼働します」と内田は答えた。
「大したものだね」
アシェリアは心底感心したように言った。
「新世界に持ち込むのは、このシステムの簡易版です。生データをひたすら集め、処理は地球側で行います」
「通信はどうするの?」
「よくぞ聞いていただきました」
内田は胸を張った。
内田の指示で動画が再生される。一画面は先程の地図、もう一画面に櫓の上のセンサー群が映る。
地図に早送りでワーム・ホールの出現がプロットされる。直径20センチのワーム・ホールが開くと、映像は等倍に戻る。
ワーム・ホールに向けて、櫓に設置された装置の一つが回転し、何かが発射される。
霧の中に、それは吸い込まれるように消えた。
「今打ち込んだのはこれです」
梶はテニスボールほどの大きさの円錐体を手にしていた。
「見たことがある。イシュタルに送られてきたものだ」
「新世界に書簡を送るのにも、同じシステムを使用しました。開発中のアクティブ防護システムの技術を使用したものです。同じ発射装置がここには38基。新世界は10基を持ち込みます。計算では、一日に一度はデータのやり取りが可能だとされています」と梶が言った。
「地球の技術は本当に凄いものだね。神であるわたしと、同じことが出来るようになるとは思わなかったよ」
もし……、とアシェリアは言葉に詰まる。
「技術を悪用する神が現れたら、どのような力になるか、想像したくもないな」
「ごもっともです」と内田は頷いた。
梶がまず瞬間移動し、イシュタルに消える。次に翌日にかけて、設営部隊の十五人を送る。
モニターの地図に映し出される点に向けて、アシェリアは順番に隊員を瞬間移動させた。
「力の消耗が少ない。彼らの強い好意を感じる」とアシェリアは嬉しそうに言った。
人が通るたび、モニターの点は一気に増えた。水面に石を投げ込んだときのように、数百もの小さなワーム・ホールが周囲に生まれる。
「驚くべき現象だ」と内田は言った。
「まるで生きているみたい……」と先輩が呟く。
二日目の夕方、直径1m近い巨大ワーム・ホールが開いたので、研究員まで駆り出して、人海戦術で物資を次々投げ込む。
四時間ほどして、ワーム・ホールの形状が不安定になる。
「行こう」とヒカルは言った。
先輩とアシェリアが頷く。
「肉丸くん、古谷くん。くれぐれも気をつけて。アシェリアさんもご多幸を」
内田の言葉に三人は礼を言って、ワーム・ホールに飛び込んだ。
地球に残った人々はその時、あたり一面に霧が立ち込めるのを見た。
「新たなワーム・ホールだ! 足元に気をつけろ!」
誰かが叫ぶ。
制御室では、三人の飛び込んだ場所を中心に、1万を超える大小のワーム・ホールが、衝撃波のように次々と開いていくのが記録されていた。
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