第40話 人間は生まれながらに自由である
「疲れたよう……」
アシェリアがホテルのベッドに倒れ込む。
アシェリアの部屋はヒカルと同じホテルの同じ階だ。公式実務訪問賓客という大層な肩書のついたアシェリアのため、日本政府がフロアごと貸し切りにしてくれた。
時計は夜十時を回っている。この時間になって、ヒカルはようやくアシェリアに会えた。
今回は五日間の滞在予定だ。隔離期間はない。前回アシェリアの提供した生体サンプルの分析の結果、新世界の病原体は、地球よりずっと素朴なことがわかったからだ。
その代わり、スケジュールは過密を極めた。
初日からアシェリアは、午前中は歓迎行事、午後からは総理との実務的な会談をこなしていた。
植村によれば、本来元首の訪問前には、実務者が綿密に打ち合わせをするものらしい。しかし、北アナトリア国とはまともな通信手段がない。何度か書簡のやり取りはしたらしいが、殆どのことは滞在中に決めることになっていた。
「お疲れ様」とヒカルは言った。「テレビじゃ、一日中アシェリアのことやってたよ」
アシェリアは恥ずかしげにうーと呻りながら、枕に顔を押しつけた。脚をばたばたさせる。
こうしていると、ミサキより幼く見える。
ヒカルにちょっとしたイタズラ心が芽生える。
「アシェリアは大人気だからね。日本中が熱狂している。アシェリア教徒なんて名乗ってる連中は、毎日君に祈ってるらしいよ」
アシェリアの動きが止まる。脱力したように、彼女は大きく息を吐いた。
「この容姿が、人を惹きつけることが多いのは知ってるよ」
彼女は他人事のように言った。
「それでも普通はそこまで熱狂しない。日本人は安心して熱狂できるんだろうね。北アナトリア国の文明が遅れているのは、明らかだから」
アシェリアは枕から半分顔を覗かせる。
「ねえ、ヒカルはわたしの何を好きになったの?」
ヒカルは割と真剣に考える。顔、肢体、声。もちろん好きだ。
高い知能と、打てば響くような会話。それも好きだ。
一緒に空を飛んだ日、身を挺してヒカルを助けてくれたときには、彼女の優しさをもう好きになっていた。
出会った日の夜、不安で押し潰されそうな中、アシェリアにまた会いたいと思った。
あのときだろうか。
「吊り橋効果、かもしれない」
「なあに、それ?」
ヒカルは吊り橋効果について説明する。アシェリアが頬を膨らませる。
可愛いと心から思う。
そうだ、このときだ。はじめて会ったとき、この可愛さに、ひと目で恋に落ちていた。
そのことを言うと、アシェリアは再び枕に顔をうずめた。
「ありがとう」
小さな声が聞こえた。
「ねえ、アシェリアは……」
ヒカルも同じことを尋ねようとする。それをアシェリアが遮る。
「見て」
彼女はベッドに腰掛けて、肩を出す。焼印が薄くなっている。刻まれていたいくつもの傷跡は、もうほとんど消えている。
「ヒカルのおかげだよ」とアシェリアは言った。
「どういうこと?」
「人間は生まれながらにして自由である。ジャン=ジャック・ルソー。いい言葉だよね」
アシェリアが微笑む。
「ヒカルのくれた本をたくさん読んだよ。自由が溢れていた。地球では、全ての人は自由であって当然なんだね。もちろんそうじゃない人も多くいるけど、地球では人は自由であるべきだと考えられている。わたしは、ずっと奴隷は奴隷だと思っていた。でも、ようやく自分が自由だと思えた。ヒカルが地球に連れてきてくれたおかげだよ」
ヒカルにそういう意図があったわけではない。ヒカルの与えた電子書籍から、アシェリアが自ら学んだ結果だ。
この聡明な女神を誇らしく思う。
「六を四つ重ねた時の間、ずっと消したかったけど、無理だった。でも、今は」
アシェリアは反対側の指で肩先に触れる。ほんの僅か指先が輝き、全能性細胞が活性化し、焼印が更に薄くなる。
「全部は消せないんだね」
「刻みつけられた意識を、一気に変えるのは難しい」とアシェリアは言った。
ヒカルは焼印に触れる。
柔らかい。蹂躙されたあとのようだった乾いた火傷痕は、再生し、瑞々しい柔肌に変わっている。
アシェリアは目を閉じる。
ヒカルが唇を重ねようとしたとき、ドアの開く音がした。
二人は慌てて身を離す。スイートルームで良かった。
ボグワートの言葉が聞こえ、エミルたちが姿を現す。
エミルはヒカルの姿を見ると、驚きと歓喜の混じった表情をする。
「メト」
ヒカルは森の言葉でこんにちはと言う。
エミルもメトと言った。
「ヒカルさんがいるとは、思いませんでした」
エミルはしっかり敬語だ。
やっぱり、アシェリアは敬語を理解していたのだ。
「日本語、覚えたんだね」
「アシェリアさまに教えていただきました。まだまだ、簡単なことしか話せません」
アシェリアがもう一人の女性を紹介してくれる。ルメンという名の、元巫女だという。
年を尋ねると左手で3を、右手で4を作った。22歳だ。
「それじゃあ、僕は部屋に戻るよ」
「また明日」とアシェリアが言う。
明日の午後、留学生の交換式典が予定されていた。日本からの留学生はヒカルと先輩だ。式典にはアシェリアも出席する。
ヒカルの明日の予定はそれだけだ。
アシェリアはもちろんスケジュールがびっしりと埋まっている。皇居での午餐会もあったはずだ。
昼まで暇だから、ずっとテレビでアシェリアの姿を見られるなと、ヒカルは思った。
留学生の交換式典は、拍子抜けするくらいあっさりと終わった。そのあとが大変だった。
ヒカルと先輩のことが、はじめて世間に公開される。
ヒカルが偶然新世界を発見し、先輩を連れて調査に行ったところ、遭難中の政府の調査団と遭遇し、アシェリアの協力を得て救助したというのが、公表されたストーリーだ。
自衛隊を派遣して死者まで出したことは、一般には伏せられている。
今の二人は大学院を休学し、政府職員となっていた。新世界研究所準備室所属という長い肩書がついている。
任期は一年。それまでは互いの留学生は、元の世界には帰らない。
留学生の四人と総理とアシェリアで記者発表に臨む。
写真撮影のフラッシュが眩しくて、顔を背けたくなる。天才少女として子供の頃から名の通っている先輩は、場馴れしているらしく平然としている。
記者たちの質問が相次ぐ。
「外交官ではなく、留学生を派遣するのは何故ですか?」
「留学生の採用基準を教えて下さい」
「人数を二名とした根拠はなんですか?」
まあ、天才の先輩はともかく、なんで俺なんだってみんな疑問に思うよなと、ヒカルは心のなかで呟く。
留学生を派遣すると政府が発表したとき、国内外から万を超える希望者が殺到した。各国や各種団体からの、人選についての圧力も凄まじかったらしい。
各方面からの
総理はペラペラと建前を答える。
「現状、新世界との往来にはアシェリアの力を借りなくてはならないわけですから、これは私とアシェリアの友情によって協力してもらっているわけであります。ワーム・ホール観測のための設営隊の派遣も含めて、アシェリアの負担にならない範囲が、留学生二名というわけです。人選においてはなにせ発見者なわけですから、彼らは。我が国としては、まずは新世界における北アナトリア国との連絡手段の確保を優先したいと思っております」
これだけ話して要点を何一つはっきりさせない話術に、ヒカルは舌を巻いた。
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