第38話 一ヶ月後に、また
「先輩、良かったんですか?」
ヒカルは尋ねた。
二人は首相官邸の五階の応接室にいた。
アシェリアに通訳が必要ないと判明し、二人はここで待機させられている。
「何がです?」
モニターを眺めながら、先輩が聞き返した。
アシェリアは先程の部屋の隣、首脳会談でよく見る部屋で、総理とともに記者たちの写真撮影に応じていた。
このあとは記者会見だという。
政府は新世界と北アナトリア国の存在を公表した。アシェリアの細胞のことは伏せられ、ヒカルたちの存在は匿名とされた。
アシェリアはフラッシュの閃光を浴びながら、凛然とこちらを見ていた。
「アシェリアの細胞」とヒカルは言った。「日本政府に渡しちゃって良かったんですか? 自分で研究したかったんじゃないですか?」
「生命科学は専門外だし、しょうがないですよ。二年も学べば一流になれる自信はあるけど」と先輩は言った。
「欲を言えば自分の手で、ってのはもちろんありますよ。でも、今回は、分析も人に頼んだし、せいぜい共同発見者がいいとこです。それでも医学、生命科学の歴史に名は残る。それで十分。あたしの両親のこと、知ってますよね?」
「確か、二人とも医師でしたっけ?」
「そう。父は大学教授。母はどっかの大病院の部長。当然あたしも医者になることを期待されてたんですよ。あたしって優秀だし。でも、どうしても人に興味が持てなかった。研究医になるにも、臨床の勉強しなきゃいけないんですよ。でも、あたしには心底どうでもいいんです。他人が生きようが死のうが、なんとも思えないんです。それで両親と衝突して、飛び出すように家を出たんです。絶対、歴史に名の残る研究してやるって言い捨てて」
先輩は振り返って笑った。
「そんな娘が偶然、医学史に残る大発見したんだから、ざまあみろとしか言いようがないですね」
ヒカルは、先輩の貪欲さの源泉を覗き見た気がした。先輩もまた、彼女なりの呪いを受けているのだ。
モニターの向こうでは、記者会見が始まっていた。総理の説明のあと、アシェリアに質問が集中する。
「アシェリアちゃん、やっぱテレビ映え半端ないですね」と先輩は言った。
『お名前の意味について教えて下さい』
若い女性記者が言った。
『全地の神アシェリア。神グリファによって神になったもの』
そういう意味だったのかとヒカルは思う。
その後も様々な質問が続いた。
アシェリアは記者の求めに応じ、浮いてみせたり、瞬間移動をしてみせた。
『他に出来ることを教えて下さい』という記者の質問には、あなたの書く記事のタネになれると答えて、会場は笑いに包まれた。
「留学生、立候補しようと思っています」とヒカルは言った。
「あたしもです」と先輩も言った。
記者会見が終わったのは夜八時を回っていた。
三人は首相官邸の前庭にいた。見送りの総理や政府要人もいる。
「いやいや、本当に泊まっていってくださいよアシェリアさん。赤坂迎賓館でも帝国ホテルでも手配します。何なら公邸、私の家でもいいんで」
総理は何度目かのアシェリアの引き留めを試みる。
アシェリアは黙って首を横に振る。イシュタルのことが心配なんだろうと思う。
「今から帰れば、イシュタルはまだ昼かな」
空を見上げてアシェリアは言った。
その言葉で、ヒカルはようやくイシュタルとの時間の差が、単純なトルコとの時差であることに気づく。
なんのことはない。そのことに気づいていれば、最初から時差を経度に変換して、ボグワートの位置を特定出来たのだ。
乾いた笑いが漏れる。
「え? なに……怖いんですけど……」
先輩が不気味そうな目でヒカルを見た。
「じゃあ、一ヶ月後に」
アシェリアはそう言って、ヒカルを見て微笑む。
正式な外交手続きが一ヶ月後に行われることになっている。アシェリアはそれに合わせて来日する。
「じゃあ、また」とヒカルは言った。
アシェリアをたまらなく愛しく感じる。抱きしめたい衝動に駆られる。
すんでのところでヒカルは踏みとどまる。先輩をはじめたくさんの目と、敷地の外からは更にたくさんのカメラが向けられている。
アシェリアはタブレットを開く。ヒカルがあげたものだ。十和田までの方角が示される。
タブレットには数千冊の電子書籍も入っている。
「カクミチもさようなら」とアシェリアは言った。
「また、お会いしましょう。アシェリア」と総理は言った。
総理の提案で、二人は敬称なしで呼び合っている。
親密さを表すためらしいが、バカみたいだとヒカルは思う。そんなことにアシェリアも付き合って欲しくない。
これが単純な独占欲なことは、ヒカルも十分承知している。
アシェリアは宙に浮く。正門前に詰めかけていた報道陣や野次馬に、どよめきが広がる。
摩天楼より高く彼女は昇る。
報道だろう、上空を飛んでいたヘリコプターが集まってくる。
アシェリアが手を振るのが見えた。そして彼女の姿は消えた。
このときのヘリコプターからの映像は、その後、何度も何度も繰り返し放送された。
キャスターやナレーターは、決まってアシェリア陛下が日本国民に向けて手を振ったと言った。
ヒカルだけは、それが自分にだけ向けられていたことを知っていた。
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