第37話 好奇心は止められない
その後は大騒ぎだった。
人工呼吸が行われ、隊員たちが蘇生する。
医師が駆けつけ、講堂は野戦病院のようになった。
アシェリアは隊員全員が息を吹き返すのを見て、部屋を出ていこうとした。
「お待ち下さい」
植村が呼び止める。傍らに外務副大臣兼務の女性がいた。
「三上と申します」
女性は改めて名乗った。定年間近の教師といった雰囲気だ。
「まず大変な失礼があったことをお詫び申し上げます。しかし、もうしばらくお時間を頂戴出来ないでしょうか。総理がお会いしたいと申しております」
帰ると言い張るアシェリアを、説得するのに三十分かかった。
内閣府の庁舎と首相官邸は地下通路で結ばれていた。
三上の案内で、首相官邸の四階に上がる。同行するのは、植村と内田だけだ。
「宮殿だね、まるで」
中庭の日本庭園を見下ろして、アシェリアは呟いた。
首脳会談の報道でよく見る、一人がけのソファの並んだ部屋を抜けて、奥の小さな会議室に通される。
総理はTVで見るより、ずっと大柄だった。傍らには官房長官もいる。
「まぁまぁ、立ち話もあれなんで、座ってください。アシェリア……」
総理は言葉を切って、官房長官を見た。
「矢口さん、神様の敬称は陛下で良かったっけ?」
調子のいい近所のおじさんのようだなと、ヒカルは思った。
「我が国の伝統にのっとれば、『
「改めてアシェリアさん、大変な行き違いがあったことをお許しください」
総理は深々と頭を下げた。
「もういいよ」
毒気を抜かれたように、アシェリアは言った。
「この子、日本語学習したばかりで、敬語まだ使えないんです」と遠慮がちに先輩が言った。
そうではなく、敬語など使うつもりがないのだろうと、ヒカルは思った。
「いやいや、それでも日本語がお上手だ。アシェリアさんは日本語学習を始めて二ヶ月に満たないとか。三上さん、外務省の語学プログラムって何ヶ月でしたかね?」
「入省直後の四月と、留学前の三ヶ月の計四ヶ月です」
「いやいや、我が国の若者より、アシェリアさんははるかに優秀なわけだ。これは参った」
「雑談をしにきたわけじゃない」
頭をかいてみせる総理に、アシェリアは冷たく言った。
「なぜイシュタルに来ようとする? イシュタルを放っておいて欲しい」
「何故と言われても……」
総理は困ったように大げさにこめかみに手を当てた。
「あなたを責めているわけではない。ただ、ホモ・サピエンスの考え方が知りたい」
「わかりました。ざっくばらんにいきましょう」
総理は大きく頷いた。
「新世界の発見。これに国民は熱狂するからです。熱狂は好奇心を生む。その好奇心が満たされない場合、憎しみを受けるのが私達政治家です」
「憎まれるとどうなる? 殺されるの?」
「いやいや、今の日本ではそこまではいかないでしょう。私が官邸を追われるだけです。でも次の総理はまた、北アナトリア国へ欲を出すでしょう。我々は新世界を発見したんです。発見した以上、好奇心は止められない」
「発見、か……」
アシェリアは呟くように言った。
「その考え、ほんのこの前まで、わたしは理解できなかった」
中世の長い間、科学はほとんど進歩しなかった。何かを発見するという意識が希薄だったからだ。
現代においてはホモ・サピエンスの好奇心は、宇宙や素粒子や遺伝子に向かっている。そのおかげで新発見が相次ぎ、科学は急速に発達した。
しかし中世の社会では、好奇心の対象は古典にあった。あるいは、ほとんどの人は、生活の外に好奇心を抱くこともしなかった。限られた人々だけが、論語や聖書の中に答えを探していた。
彼らはイエスを史的に研究しようとは、思ってもいなかった。
イシュタルも同様だ。アシェリアは、神話に回答があると思っていた。
地球に来て、科学を学んだことで、彼女の考えは変わったのだ。
「今は、理解できますかな?」と、総理は言った。
「ある程度なら」とアシェリアは言った。「わたしの細胞は、どの程度の発見になる?」
「どう思われます、内田先生」
総理の問いに内田は肩をすくめた。
「専門外なんで詳しいことは言えませんが、新世界と同じくらいの発見にはなると思いますがね。体細胞が全能性を取り戻す。その発見だけでも大騒ぎになる。再生医療やがん治療、どこまで可能性を秘めているのか想像もできない。生命科学、いや社会へ与えるインパクトは凄まじいでしょうね」
「わたしの身体で良ければ、いくらでも提供する」とアシェリアは言った。「ワーム・ホールとイシュタルを見守って欲しい」
「見守る、ですか? 放っておく、ではなく」
アシェリアは頷いた。
「ワーム・ホールがどうなっていくのか、わたしも知りたい。そのためには、やっぱりあなたたちとの協力が必要だ」
結局、アシェリアはだいぶ譲歩した。
北アナトリア国内にワーム・ホールの観測装置の設置と、設営隊の常駐を認めた。
観測の目的はワーム・ホールの出現予測と、無秩序な拡大のコントロールだ。いずれは完全閉鎖を目指す、とされたが、いずれは来ないだろうとヒカルは思った。
日本政府の要求していた調査隊の派遣に替わっては、ごく小規模に留学生を交換することになった。
北アナトリアは日本にアシェリアの細胞を定期的に提供することになり、見返りに病院が作られることになった。彼女の民からの願いで、最も多いものが病気や怪我の治療だからだ。
互いを互いの世界の唯一の交渉相手とする、という点では双方の利害が一致した。
アシェリアはイシュタルに地球の情報を拡散させたくはないし、日本はアシェリアの細胞を独占したい。
「素晴らしい内容です、総理」
官房長官は満足げに言った。
「一時はどうなることかと思いましたが、これで選挙も万全でしょう」
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