第36話 無酸素の空気を吸えば

 資料が配られ、別の男がこれまでの経緯を説明する。

 ときどきアシェリアの知らない単語が出て来て、ヒカルが小声で解説した。

 説明が終わり、アシェリアの回答が読み上げられる。

「話にならんな」

 防衛副大臣兼務だという男が、説明を遮って声を上げる。

「賠償の話はどうなった。自衛隊員が殺傷されたんだぞ」

「賠償は要求していません。我が国側からも、極めて遺憾な行為がありました」

 外務副大臣兼務の女性が制するように言う。

「あの時点では、TN空間は我が国と地続きの領土という解釈だったはずです。純粋に国内問題だ。我が国に非はない」

「谷さん、新世界しんせかい、です」と女性は教え諭すようにゆっくりと言った。

「そもそも北ア国は国連加盟国ではありませんし、国際法の適用を受けるかどうかもまだ定まってはいません」

「そんな国を承認しようというのか、我が国は。情けない」

 谷は吐き捨てるように言った。かなり血の気の多い性格なのだろう。

「だいたいワーム・ホールの観測のみ検討とは、おこがましいにも程がある。我が国からの一方的な技術供与ではないか」

 話にならないとヒカルも思った。これが交渉の態度なのだろうか。

「そもそも神だとか、平行世界だとか、馬鹿げている。いい大人が25人もいて、集団で幻覚でも見せられていたんじゃないか」 

 もはや誰も何も言わない。主張が通ったと思ったのか、谷は満足げな笑みを浮かべた。

「よろしいですか?」

 奥の方から声がした。谷が不快げに振り返る。

「なんだね、植村参事官」

「疑われるのはもっともです。しかし我々は事実、新世界イシュタルに行って帰ってきました。地球側の自衛隊が、誰一人救助に行けなかったのにです。この事実と、我々の帰還にあたってのアシェリアさんの尽力は汲んでください」

 男はちっと舌打ちした。

「これは高度な政治的交渉だ。事務方が口を出すな」

 植村の苦労が偲ばれるとヒカルは思った。

 先輩がアシェリアに耳打ちする。アシェリアが頷く。

 鞄から先輩は紙の束を取り出した。

「日本にめちゃくちゃ利益がある話、しますか?」

 先輩は立ち上がって、紙束を掲げる。ところどころマーカーがしてある。

「なんだね、君は?」

 谷の言葉を無視して先輩は続ける。

「あたしたちは、彼女から体細胞の提供を受け、大学のラボに送り、生命科学的な調査を依頼しました。これはその速報です。ここには、彼女の細胞には驚くべき特徴がいくつもあることが記されています」

 先輩は内田のもとに歩み寄り、紙束を手渡す。

「査読も追試もない速報ですが、折角なので、内田教授に見てもらいましょう」

 内田はわかったと言って紙束を受け取る。老眼なのか、顔を近づけて紙をめくる。手が震えだす。

「もう無理だ。何も頭に入らない」

 半分くらい読んだところで、内田は天を仰いだ。

「遺伝子解析の結果は、多少の違いはあるものの、ホモ・サピエンスで間違いない。ミトコンドリアDNAによれば、地球のホモ・サピエンスとの共通祖先を持つ」

 これは、イシュタルと地球は、かつて一つだったことを示している。アシェリアとヒカルは、ミトコンドリア・イブを祖先とする同一のホモ・サピエンスなのだ。

「これだけでも信じられんが……」と内田は続けた。

「その細胞を培養したところ、テロメラーゼの活性化とともに、急速に上皮細胞としての特徴を失い、未知の細胞となった。その細胞は、全能性を示したそうだ」

 驚いたものと、ポカンとした顔のものがいる。

「内田先生、どういうことですか?」

 阿呆のような顔で谷が尋ねた。この男は理解できない側なのだ。

「不老不死ということだよ。限定的だとは思うがね」

 谷は笑い出す。

「冗談でしょう。不老不死ぃ? デタラメに決まってるじゃないですか」

「もういい」

 アシェリアが立ち上がり、声を上げた。通りの良い声が講堂に響く。

『ごめん』

 頭の中でアシェリアの声がする。

 ヒカルと先輩はアシェリアを見上げる。日本政府側でも、内田と梶と植村は妙な顔をしている。彼らはかすかに声が聞こえているのだ。

「こんなところに来た、こなたが愚かだった。地球は随分文明の進んだ場所だと思っていた。そなた達に感心していた。だが知恵とは程遠い場所のようだ。これはなんだ。このようなあるじを、イシュタルでは民が生かしてはおかぬ。そなたら、誰かこのものを殺せ」

 アシェリアはそこまで言って、言葉を区切る。全員を見渡し、アシェリアは言った。

「そなたらは己の意志ではなく、獣の如き愚か者に従うのだな。もう語らぬ。こなたは帰る。こののち、イシュタルに来るものがあれば例外なく殺す」

 反応したのは谷だけだった。

 顔を紅潮させ、叫ぶように言う。

「それは挑発かっ!」

「好きに思え」

 谷は片手を上げる。

 それを合図に扉が蹴破られ、目出し帽に黒ずくめの兵士たちが流れ込んでくる。構えた小銃にボディアーマー。完全武装だ。

「谷さんッ」

 外務副大臣兼務の女性が叫ぶ。

「不測の事態になれば、武力の使用もやむなし。総理も了解済みです」

 谷は下卑た笑いを浮かべながら言った。

「報告によれば、新世界では施設科の小隊を蹴散らしたそうだな。今度は陸自最精鋭の特戦群だ。その化けの皮を剥いでやる」


 政府側の人々は、隊員の誘導で壁際に集められる。

「民間人はこちらへ」

 隊員がヒカルと先輩を呼ぶが、二人は動かなかった。

 隊員たちは散開し、アシェリアに銃口を向ける。

「そなたは戦わないのか?」とアシェリアは言った。

 谷は何も言わない。

「愚かなあるじのために兵が死ぬ。よくあることだが、悲しいことだ」

 アシェリアは隊員たちを見渡す。次の瞬間、一人の隊員が持っていた小銃が消え、アシェリアの手に現れる。

 小銃だけ瞬間移動させたのだ。

 一同が息を呑む。

「重い……地球で言うところの3.5キログラムというところか」

 小銃を両手で抱え、大して興味もなさそうにアシェリアは言った。

 銃を失った隊員は、すぐに拳銃を取り出して構える。いかなる状況にも即座に対応できるよう鍛えられているのが、ヒカルにもわかる。

「銃。イシュタルにはない、優れた技術だ」とアシェリアは言った。

「1532年、インカ帝国の皇帝アタワルパは、数万の兵士を従えていたにも関わらず、フランシスコ・ピサロ率いるたった168人のスペインの兵士に敗れ、処刑された。スペイン人には銃や鉄の剣、馬があったからだ。技術が勝利をもたらした。しかし……」

 アシェリアは小銃を投げ捨てた。がしゃんと耳障りな音を立てて小銃が転がる。

「そなたらはピサロのつもりだろう。だが、アタワルパとなるのは、そなたらだ」

 アシェリアがそう言った刹那、隊員たちの銃が形を失い崩れ去る。同時に隊員たちがばたばたと倒れた。

 拳銃を構えた隊員だけが立っている。

 ざわめきが広がる。

「何をしたっ!」

 谷が叫ぶ。

「地球に来て、こなたは多くのことを学んだ。鉄がなぜ錆びるのか、大気の組成、人が呼吸するわけ」

 まさかと思って、かつて小銃だったものを見る。赤黒い一塊。酸化鉄だ。

「大気中の酸素濃度は21パーセント。その銃、3.5キログラムの鉄の塊を酸化させれば、6立方メートル中の酸素を消し飛ばせる。それだけの無酸素の空気、一呼吸で昏倒に至る」

「化け物め……」

 谷が吐き捨てるように言う。

「皆同じことを言う」

 アシェリアは自嘲のように言った。

「そんなことより早く手当をしてやれ。今ならまだ、助かる」

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