第34話 神と水爆

 毎日、朝から深夜までヒカルと先輩が家庭教師となり、日が変わる頃から軍事や歴史のドキュメンタリーを見る。

 アシェリアはほとんど眠らない。いつも明け方近くに先輩のベッドに潜り込み、朝は誰よりも早い。

「肌荒れるから、先寝ますね」

 先輩はいつも先に寝室に入る。

 画面の中では、アシェリアの努力を嘲笑うように、ホモ・サピエンスが原爆より威力のある水爆実験を繰り返し、せっせとミサイルを作っていた。

「……どうして、こんなにたくさんの核兵器が必要なの?」

 呆然とアシェリアが言う。

「本当は必要ない。たぶん、怖いんだと思う。ただ恐怖して、備える。それが他の国へ恐怖を与える」

 安全保障のジレンマと呼ばれるものだ。

 第一次世界大戦の原因の一つとして知られている。

 各国は、自国の安全のために行動しているに過ぎない。互いに安全のための備えを高めることが、緊張を増加させる。適切な対話を欠いたままそれが進めば、誰も欲していない武力衝突に至る。

「だからアシェリア、殺すなんて強い言葉をたくさん使っては駄目だ」

 ヒカルはずっと伝えたかったことを言った。

「わたしも怖い」

 アシェリアはソファの上で膝を抱えた。

「地球は凄いよね」

 しばらくして、彼女はいつもの屈託のない笑顔を見せた。

「毎日遠くまで水を汲みに行くこともないし、病気の子供も見捨てられない。飢えて子供を売る親もいない」

「地球でも、そういった場所はまだあるよ」

「そっか。ヒカルのまわりが特別なだけか……ヒカルたちは貴族なんだね」

「貴族?」

「そう。自覚はないかもしれないけど、ヒカルたちは貴族だよ」

 ヒカルは何も言えず、二人は沈黙した。

「地球の貧しい人は、ヒカルたちの暮らしを知ってるんだよね。これだけ沢山の知識を伝えるわざが、地球にはあるんだから」

「どの程度知っているかはわからないけど、多少は知っていると思う」

「きっと羨ましくて、たまらないだろうねえ」とアシェリアはため息をついた。「わたしもそうだったよ。売られた先で見た、豪華な食事や綺麗な服が輝いていたことは、今でも覚えている」

 ヒカルはそっとアシェリアの手を取る。彼女はちょっと微笑んで小さく握り返す。

「地球を知ったら、イシュタルもきっとそうなる。人々は、病気の子供が助かることや、お腹いっぱい食べられることから目を逸らすことが出来ない。すぐに、地球と同じようになろうとする。地球から直接教わらなくても、自分たちで文明を進める。わたしがいま一番怖いのは、地球の軍隊じゃなくて、イシュタルの国が地球の兵器を持つこと。彼らは躊躇いなく、わたしに水爆を使う。イシュタルには相互確証破壊も、パクス・アメリカーナもないんだよ」


 目が覚めると夜が明けていた。しかしまだ五時台だ。

 アシェリアはすでに起きていた。パジャマ代わりのブカブカのトレーナーを着ている。

「おはよう」

 寝袋の中から声をかける。

 彼女は500mlのペットボトルの水をじっと眺めている。

「何してるの?」

「水爆の原料の、重水素が集められないか探していた」

 アシェリアは冗談とも本気ともつかないことを言った。

「見つかった?」

「難しい。頑張って探したけど、このくらいしか見つけられなかった」

 アシェリアは人差し指と親指の先で、爪の一枚くらいの隙間を作った。

 ヒカルは驚く。たしかに昨夜、水素爆弾の仕組みと、水素の同位体の話をした。

 でも、存在割合の話はしていない。

 地表での重水素の存在割合は0.015%。その化合物の重水は、500mlのペットボトル中に、たしかに爪一枚くらいの量が存在する。

「水爆には重水素の中でも、二重水素と三重水素の両方が必要なんだ。二重水素は地上にある程度存在するけど、三重水素はほぼ皆無だよ」

「三重水素はどうして少ないの?」

 ヒカルは物理の教科書を開いて放射性同位体について説明する。

 地球で三重水素が生成されるのは大気の上層か、原子炉か、核実験だ。例えば原子炉では、二重水素に中性子が捕獲されて三重水素となる。しかし、12年で半分が崩壊してヘリウムになるため、二重水素とくらべて存在に偏りがある。

「二重水素に中性子を足してあげればいいんだね」

 アシェリアはペットボトルに手を翳す。ヒカルは慌ててアシェリアを止めた。

 本当に中性子ビームを出しかねない。もちろん、人体への悪影響は極めて強い。

 ちなみに二重水素からなる重水は、多少なら飲んでも人体に悪影響はない。むしろ甘いと言われている。

 アシェリアの集めた重水は、確かに甘かった。


 アシェリアの力は認識できる範囲にしか届かない。その代わり、確率的にでも認識出来れば、五感の及ばないミクロの世界にも干渉できる。では、モニターの向こう側ではどうか。

 生放送のTVでは、キャスターが六本木の毛利庭園から、明日の天気を告げている。

 アシェリアはTVに手を翳す。

「やるよ。やりすぎたら、ごめん」

 しばらくは何も起こらない。

 アシェリアは目を閉じる。全身が光を帯びる。

『明日も残暑が厳しくなりそうですね』

 キャスターがそう言った瞬間、後ろの毛利池が結氷した。

「……う……そ……」

 先輩が手にしていたマグカップを落とす。カラカラとアシェリアのそばに転がったマグカップが、凍りついて割れる。

「まだ……花を咲かせる」

 そう言うアシェリアの身体が寒さで震えている。

 毛利庭園では氷に閉ざされた池の畔で、桜が紅葉し、葉を落としていた。桜は早送りのように、蕾をつけ、満開となった。

 騒ぎが広がっている。写真を撮る人々。絶叫も聞こえる。

「どうかな?」

 アシェリアは振り返った。その頬は真っ白な霜に覆われている。

 十分だとヒカルは思った。

「この力があれば、地球の裏側の人をも殺せる」とヒカルは言った。

「一方的だね……やりたくないな……」

 アシェリアは小さく言った。「神の力で一方的に殺すのは、やりたくない」

 ヒカルはアシェリアが自衛隊と槍で戦っていたことを思い出す。

 一方でライオンは、手を翳しただけで葬った。見ず知らずの他人を瞬間移動させるのに力を消耗するのも同じ理由だろう。

 アシェリアの力は、彼女の思いにも縛られていた。

 神の力で他人を思いの儘にすることを、彼女は望んではいないのだ。

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