第33話 地球は狂っている
先輩のマンションは2LDKの瀟洒なデザイナーズマンションだ。宅飲みで何度かお邪魔したことがある。
玄関前には山のようなダンボールが積まれていた。
中身はほとんどが頼んでいた書籍だ。
教養課程レベルの物理、化学、生物、地学、数学、倫理や歴史のテキスト。軍事についての雑誌。映像の二十世紀やプラネット・アースなどのドキュメンタリーのブルーレイやDVDもある。
「とりあえず、地球の常識から覚えましょう。美少女が二人いたら、することは一つです」
先輩はアシェリアにパジャマを手渡す。
「一緒にお風呂入って、パジャマパーティーです」
着替えがないことにヒカルが気づいたのは、ようやくこのときになってからだった。
「かんぱーい」
冷凍のピザとスペイン産のスパークリングワインで夕食を取る。
ヒカルは先輩の短パンとTシャツを借りている。心なしか胸のあたりがスカスカする。
「明日から脳をフル活動させるから、今日は休ませましょう」と先輩は言った。
アシェリアは冷えたワインに驚く。イシュタルにもワインはあるが、冷やして飲む風習はないらしい。冷蔵技術がないからだろう。
アシェリアに瓶内二次発酵と、冷蔵庫が吸熱で物を冷やす仕組みを説明する。
食事後には三人で映像の世紀を見た。
字幕付で見ることで、日本語の読み書きの学習を兼ねている。
二十世紀の悲惨な戦争に、アシェリアの目が釘付けとなる。
機関銃の登場で塹壕に止め置かれる兵士、飛行機の登場と投下される爆弾、戦車が開発され、バラ撒かれた毒ガスによって一方的な殺戮が起こる。
「本当に地球に神はいないんだね」とアシェリアは言った。
イシュタルの戦争は、最後は神同士の争いとなるという。人の戦いなど、その露払いにしかならない。
神が決戦兵力のような役割を担っているのだ。
「これが第一次世界大戦。百年以上前の戦争だよ」とヒカルは言った。
先輩は先に寝室に行き、二人の二十世紀は進む。
第二次世界大戦は映像で見ても、アシェリアの理解を超えていた。
750キロもの要塞線、1000箇所の強制収容所、そこに送られる1200万人もの人々。
「地球は狂っている」とアシェリアは言った。
そうかもしれないと、ヒカルは思う。
ソファの上で二人は身を寄せるように距離を縮める。
海を超えて降り注ぐV 2ロケット、東京大空襲、二発の原爆。
「大いなる災い……」
アシェリアは呟くように言った。
「もう起こっていたんだね、ヒカル。地球では大いなる災いが起こっていた。今度はイシュタルで、あれが落ちるんだ」
アシェリアは小さく震えていた。
ヒカルには、ただその横にいることしか出来なかった。
改めて身の周りを見渡すと、地球は科学で溢れている。
電子レンジとIHクッキングヒーターは、ものを温めるという点では同じだが、マイクロ波と誘導加熱では原理はまるで違う。それぞれ兵器としては、マイクロ波はレーダーに使われ、電磁誘導はレールガンの原理となっている。
テキストでの学習に合わせて、そういったことを一つ一つアシェリアに教えていく。
アシェリアの吸収は早い。
テキストを片っ端から暗記し、あとで定理や原理と結びつけていく。音声をそのまま記憶してしまう能力に加えて、彼女は見たものを写真のように記憶する映像記憶能力も持っていた。
アシェリアは定理や原理がいつ発見されたのかも知りたがった。映像を頭の中で年表にして整理し、体系化しているようだった。
その能力には、飛び級を繰り返し、天才と呼ばれている先輩も舌を巻いた。
「その能力も神の力?」とヒカルは尋ねた。
「無関係だよ。生まれたときからの力」とアシェリアは言った。
貧しい時代のこととはいえ、この才能を奴隷のままにしておいたのは、イシュタルの損失だとヒカルは思った。
アシェリアの神の力について、いくつかわかったことがある。
彼女の力は認識の呪縛を受けているが、認識とは必ずしも五感による必要はない。存在することを知るだけでも、力を使うことが出来た。
雨を降らせるときに無意識にやっていたのと同じ要領だ。
この発見で、彼女の能力は、ミクロの世界や、電磁波を操ることに非常に適性があるとわかる。
アシェリアは左手にフライパンを持ち、右手をかざしている。
次の瞬間、フライパンに小さな穴が開く。電子ビームだ。
「この力も駄目だね」
アシェリアはがっかりしたように言った。
「弱すぎる。これじゃ地球の軍隊には対抗出来ない」
アシェリアは学習したことを、すぐに戦いの技術に応用しようとした。最終的には原爆に対抗出来る力が欲しいという。ソ連の人工衛星スプートニクの打ち上げにパニックになったアメリカのように、彼女から必死さと焦燥が伝わってくる。
実はヒカルは、いくらなんでも原爆に対抗するのは、ちょっと無理じゃないかと思っている。それよりは、核兵器をイシュタルに持ち込ませない仕組みを考えたほうがいい。
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