第32話 車中にて
長い夢の途中で目覚めた気がする。
エンジンの鈍い音。小さな段差を踏むたびに起きる、小さな突き上げ。
車の中だった。あたりは透明なビニールシートで覆われている。
隣にはアシェリアの姿がある。
ストレッチャーの上で彼女は眠っている。穏やかで美しい寝顔に、つい見惚れる。
「起きましたか?」
前席に先輩が座っていた。
ヒカルは起き上がってあたりを見渡す。救急車の中のようだ。外はまだ明るい。
「自衛隊の救急車です。なんでもあるんですね、自衛隊って」
先輩の話によれば、アシェリアとヒカルはワーム・ホールを通ったときに気を失った。
ひとり意識のあった先輩が捜索中の自衛隊を呼び、三人は救助された。
待機していた医官が呼ばれ、ヒカルとアシェリアは診察を受けた。
「単に眠っているだけですね」とその若い医官は言った。
今は陸上自衛隊の救急車で、隔離のため仙台市内の先輩のマンションに向かっているところだという。
「アシェリアちゃんは疲労困憊だったからわかりますが、なんでヒカルくんまで気を失うんですか。焦りましたよ」
「毎回なんですよね。ワーム・ホールを通ると、いつも意識がボーッとする」
ヒカルはアシェリアを見る。ワンピースの胸のあたりがゆっくりと上下している。深い眠りの中にあるようだ。彼女はどんな夢を見ているのだろう。
夢?
ヒカルは思い出す。
「……夢だ。夢を見るんです。いつも」
「夢?」
先輩は怪訝な顔をする。
「夢です。火砕流、空に浮かぶ男女。大噴火が起きようとしている?」
ヒカルは頭を抱える。
今回はかなり鮮明な夢だった。なのに肝心の二人の顔や、噴火の詳細が思い出せない。
「夢って、大脳に保管された情報を引き出してるだけらしいですよ。火山はヒカルくんの研究テーマだし、飛ぶ男女はアシェリアちゃんと飛んだときの記憶じゃないですか?」
そんなものかとヒカルは思う。
「ワーム・ホールが人体に与える影響は、全くの未知です。今後、調査が必要かも知れませんね」
突然に助手席から声がする。ビニールシートの奥に見知った顔がある。
助手席に内閣府の植村がいた。
「お目覚めのようですね。仙台まで、私が随行します」
植村は白い防護服を着ていた。運転席の男も同じ格好だ。
「アシェリアさんが目覚め次第、今後のスケジュールをお話します。その前にまずは事務的な説明をさせてください」
植村は地球に帰ったあと、まさに奔走したらしい。
TN空間についての報告書をまとめ、政治家たちにイシュタルにおける北アナトリア国の存在を認めさせ、ヒカルたちが泊まっていた旅館にうまく事情を説明し、ランドクルーザーを先輩のマンションに送り届けさせた。
「今後日本政府は、あの世界をTN空間ではなく、新世界イシュタルと呼称します」
ヒカルは胸をなでおろす。
国として認め、呼び方を変えたということは少なくとも日本政府は無茶な領土欲などは持ってないということだ。
アシェリアには、とりあえずの平穏な暮らしが約束された。
「行き来が非常に困難ですからね。手の届かないパイのようなものです。そこの説得には、あまり苦労はしませんでした」と植村は言った。
「イシュタルのことは一般に公表したんですか?」とヒカルは尋ねた。
「まだです。アシェリアさんとの会談後の判断ということになっています。国民が迷い込むのを防ぐために、十和田湖周辺の封鎖は続けています。あなた方も、SNSなどに書き込むなどの行為は、控えるようお願いします」
わかりましたと二人は答えた。
「そういえば」とヒカルは言った。「アシェリアは外国人ということになりますよね。入国手続とか必要ないんですか?」
「必要ありません」と植村は言った。「外務省と折衝し、アシェリアさんは国家元首に準ずる扱いということになりました。国家元首は慣例により、パスポートも入国手続も不要です」
もしかしたら植村はものすごく優秀なのかもしれないとヒカルは思った。
「感謝する」
アシェリアの声がした。
彼女は目だけ開けて横たわっていた。
「起きてたんだ」とヒカルは言った。
「手の届かないパイのあたりから」とアシェリアは言った。
彼女は身を起こすと、ヒカルの横に座った。
「アシェリアさん、これからの予定をお話してよろしいですか?」
かまわないとアシェリアは言った。
「まず、お三方には肉丸さん宅で10日間の隔離生活を送っていただきます。毎朝、一日分の食事をドア前の宅配ボックスに届けさせます。必要なものがあれば、事前に伝えていただければ、その際合わせて届けさせます。なお事前に要望がありました本、ブルーレイ等は既に届いています」
「仕事が早いですね」と先輩が感心したように言った。
「隔離期間中の外出は禁止です。来客も断ってください。どうしても人と会う必要があるときも、玄関の扉ごしに会話してください。毎日夕方に、医師によるオンライン診察があります。10日間体調の変化がなければ、11日目に東京に来ていただきます。協議には、日本政府からは副大臣クラスが出席予定ですが、詳細は調整中です。肉丸さん、古谷さんのお二人は通訳として同席可能ですが、いかがされます?」
「同席します」とヒカルは言った。
「他に誰が同席するんですか?」と先輩は逆に尋ねた。
「政府からは随行で外務省と内閣府の担当者、私が同席します。他に陸上自衛隊の梶三佐と内田先生もオブザーバーとして同席予定です」
「内田教授が来るなら行きます」と先輩は言った。
「スケジュール的には以上です。ご質問は?」
三人はないと言った。
「それからご報告なんですが、総理に報告したところ、北アナトリアという国名が大変気に入られたようです。良い国名だとおっしゃっていました」
「どういうことですか?」とヒカルは聞いた。
「日出る場所」と植村は言った。「東ローマ帝国がそう呼びだしたそうですね。アナトリコン。日の昇る場所。ワーム・ホールが日本と繋がったのも、運命を感じます」
ヒカルは運命を信じてはいない。
古典力学の世界では、未来はすでに決まっていた。
アインシュタインは、神はサイコロを振らないとまで言った。
しかし、量子力学の登場により、未来は不確実であることが示され、運命は消え去った。
ふとヒカルは思う。
アシェリアと出会えたのは偶然だろうか。
世界をやり直すことは出来ないが、もし仮に何度再現したとしても、自分はアシェリアと出逢うだろうとヒカルは思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます