第29話 口腔粘膜細胞
「死神か。残酷なことをさせますね……」
アシェリアが瞬間移動していったあと、先輩はポツリと言った。
「これでいいんです」
自分に言い聞かせるようにヒカルは言った。
「プランはあるんですか? 15日も日本政府が待ってくれるとは思わないですけど」
「僕らは未知の社会と接触したんです。日本がインカやアステカのようにならないために、隔離を申し出れば断る理由はありません」
「感染症ですね」
1万年以上未接触だったユーラシア大陸と南北アメリカ大陸のホモ・サピエンスは、十五世紀末に接触した。その後のコロンブスの交換でもたらされたものには、感染症も含まれる。
ヨーロッパには梅毒が、南北アメリカ大陸にはインフルエンザ、はしか、天然痘などが持ち込まれた。
被害は南北アメリカ大陸のほうが凄まじく、一連の征服事業とあいまって、インカ帝国やアステカ帝国は滅亡し、2500万人だった先住民の人口は、十六世紀のはじめには100万人にまで減少した。
「隔離されている間に、徹底的にアシェリアに地球の知識を叩き込みます。協力してくれますよね」
「ヒカルくんの頼みじゃ、うんと言えませんね。得るものがなさすぎます。二週間隔離されるなら、査読付き論文が一つ二つは書けますよ」
「ですよね……」
「だから、それ以上のメリットをください」先輩がニヤリと笑う。「アシェリアちゃんの口腔粘膜細胞。もちろんサンプル提供の同意付きで」
ヒカルは思わず息を呑む。
科学者として、考えなかったわけではない。
不老であり、高い再生能力を持つアシェリアの肉体は、生命科学的な情報の宝庫だ。遺伝情報を解析しただけでも、科学史に残る大発見に繋がりかねない。
発見は必ず応用され、ホモ・サピエンスの福祉に役立つ。しかし、それは倫理的に許されることなのか。スペイン人のコンキスタドールがインカやアステカから黄金を持ち去ったことと、同じではないのか。
でも今は、先輩の頭脳が必要だ。
「研究成果の発表には、地球の知識を得たあとのアシェリアの同意をお願いします」とヒカルは言った。
「当然ですね」
二人の地球物理学者はアシェリアを待っている間、ワーム・ホールについて話した。
ワーム・ホールは本当に物理学的なワームホールと同一なのか。
位相幾何学的に二つの世界を考えると、ワーム・ホールが開くとき、空間はどのように変化しているのか。
質量を持った物体が通過した時点で、エネルギー保存の法則や相対性理論は破綻するので、二つの世界を一つの系と考えたほうが良いのではないか。
「基本的なデータが不足していますね。仮定の話が多すぎます」
先輩はため息をついた。
「最低でも、出現範囲、回数、大きさのデータは欲しいですね」とヒカルは言った。
それから二人はワーム・ホールの出現を観測する方法について話す。
ヒカルは、地表付近にメッシュ状に配置したレーザーと測光装置の組み合わせで、霧を検出する方法を考えた。先輩は櫓のようなものから地表に電波を照射して、反射を観測するレーダー方式がいいのではないかと言った。
夢中で話しているうちに、いつの間にか後ろにアシェリアが立っているのに気づく。
「やっほ」
アシェリアは屈託なく笑った。
「戻ってたんなら、声をかけてくれたらいいのに」とヒカルは言った。
「二人がとても楽しそうにしてたから、声をかけられなくて」
アシェリアは憧憬のような、恋慕のような表情を浮かべた。
植村はアシェリアの来日に同意した。隔離にも文句はない。
ただそのためには、地球で根回しの時間が必要だ。
自ずと、ワーム・ホールを通る順番も決まってくる。重症者、植村、TN空間調査委員会のメンバー、自衛隊員だ。
はじめ、植村は、内田をはじめ民間人の委員より先に帰ることを渋った。
「政府を説得するのは、君にしかできない使命だ。私も一筆書く」
内田の言葉に、植村はわかりましたと答えた。
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