第26話 悪しき神
歩いてボグワートに戻る。
「二日後で、力の回復は大丈夫?」
ヒカルは尋ねた。
「ギリギリだね」とアシェリアは言った。「でも、少しでも早く彼らを地球に帰してあげたい。どのみち一度に全員はワーム・ホールを通れないだろうから、何度かに分けて瞬間移動させる。時間がかかるから、その間に少しは回復するよ。今日わたしのことをだいぶ知ってもらったし、彼らのことも知った。だから、だいぶ瞬間移動させるのが楽になったと思うよ」
ボグワートに着く頃には、すっかり日も暮れていた。
狩りの準備で集落じゅうが騒がしい。
先輩の歓声がする。
「天国なのっ!? 女の子が人形みたいに可愛いんですけど」
アシェリアの姿を見つけた一人が声を上げる。住民が集まってくる。
エミルの姿もある。彼女はヒカルを見ると、カーテシーのように片膝を下げて微笑んだ。
アシェリアはボグワートの言葉で住民たちに何かを言う。
住民たちはアシェリアの話が終わると、「ラメ・アシェーリア」と言って合掌した。
アシェリアはエミルを呼んで話をしている。
「本当に、神様なんですね」
先輩が感心したように言った。
「今日と明日はここに泊めてもらいましょう」
「もしかしてあの樹上の家に泊まれるんですか?」
そのつもりだとヒカルは答えた。
アシェリアが戻ってくる。
「食事と身体を拭く布を後で届けさせる」と彼女はいった。「
巨大なワーム・ホールの出現。遺体の白い顔。アシェリアが結婚していたということ。
輾転反側して夜が更ける。
先輩はまだ起きているだろうかと思う。
四本向こうの木の、ひときわ低い小屋で先輩は寝ている。
運動神経が壊滅的な先輩は、地球科学の基本の一つであるフィールドワーク、つまり山歩きが苦手だ。もちろん木登りなんて出来ない。
「あたしには出来ないことが沢山あります」と先輩が学部の新入生挨拶で言っていた事を思い出す。
あのときヒカルは二年生になったばかりで、先輩はわずか十六歳だった。
「それでも、あたしは地球で起きている全てが知りたい」
知りたくないことだってあるんだよ。ヒカルは呟いた。
その時、部屋の隅に白い影が見えた。
エミルかと思う。
空に月はなく、ほとんど何も見えない。
ヒカルは枕元のバッグからライトを出そうとする。
押し留めるように手が添えられる。エミルにしては大きい
暖かな温もりと肌の柔らかさを感じる。知っている手だ。
アシェリアだった。
どうしてここに、と言いかけるヒカルの唇を、アシェリアは人差し指で抑える。バラの匂いがする。
「静かに。ここに来ているのを、悟られたくない」
アシェリアが耳元で囁く。
ヒカルは頷く。心臓が早送りのように高鳴る。
「お礼が言いたかった。助けに来てくれたこと。無茶をするね。わたしに会えなかったら、どうやって帰るつもりだったの」
「銃声が聞こえたときは夢中で、そこまで考えていなかった」とヒカルは言った。
ナッツの乗った木皿と瓢箪を渡される。初めてボグワードに泊まった日の夜のことが蘇る。
「エミルたちのほうが、良かったかな?」
見透かしているのか、アシェリアが言った。
顔が真っ赤になる。
「……知ってたんだ」
「うん」とアシェリアは小さく頷いた。「ボグワートやこの森の
男女ともにか、とヒカルは尋ねた。
アシェリアはそうだと答えた。
今頃先輩は巫女と交わっているのだろうか。
「だからヒカルも、わたしと結婚していることになっているんだよ」
アシェリアが微笑んだのがわかる。
制度上そうなっていたって、あまり嬉しくない。
「アシェリアは本当に結婚したこともあるんだよね」とヒカルは言った。
「昼間の話、気にしてたんだね」
アシェリアは声を殺してクスクスと笑った。
「もう千年も昔の話だよ。三代の王、親と子と孫と結婚した。ほとんど形だけの結婚だよ。ほかに沢山の妃がいたしね。わたしも交わりもしたけど、子供は出来なかった」
「アシェリアはどのくらいの時を生きてきたの」
「イシュタルの表現で言えば六を四つ重ねたくらい」
「地球の表現で言えば6の4乗?」
「そう」とアシェリアは言った。「いろんなことがあったよ。たくさんのものを失った」
「アシェリアに寿命はないの?」
「さあ?」と彼女は首を傾げる。「老いはしないけど、いつまで生きられるかはわからない。普通はもっと早く天の神になるか、殺されたりするから」
千年以上を生きるのは、どんな気持ちだろう。
人魚の肉を食べた八百比丘尼は、美しい娘の姿のまま八百年を生きたという。夫に何度も先立たれ、知己をすべて亡くし、彼女は尼となる。諸国を回り人々を助けたあと、八百比丘尼は自ら食事を断ち、死んだ。
「天に昇ろうと思ったことは、何度かあるよ。失い続け、憎まれ続けることにもう疲れた」
八百比丘尼の話を聞いたアシェリアは、静かに言った。
「でも、諦めて地上にいる。天に昇ると、地上で今みたいに
アシェリアが天に昇ると、メラハンナはあっという間に絶滅するだろうと彼女は言った。
ちょうど地球でホモ・サピエンス以外の人類が絶滅したように。
「もう気づいていると思うけど、わたしは
「アシェリアはなぜそこまでして、メラハンナを守るの?」
「わたしを神にしたのが
その願いは呪いだとヒカルは思う。
アシェリアは千年以上もの間、神に呪われ続けている。
でも、とアシェリアは続けた。
「ヒカルが現れて、地上にいて良かったと思えた。助けに来てくれたとき、本当に嬉しかった。六を四つ重ねた年の間、わたしを助けてくれたのはヒカルだけだったよ。ありがとう」
ヒカルは思わずアシェリアを抱きしめていた。
彼女は少しだけ身を強張らせたあと、委ねるように力を抜いた。
背中に回した手に、アシェリアの鼓動を感じる。
細い肩、浮いたあばら、形の良い小ぶりな乳房。栄養状態の悪い、小さな身体。
よく生きていてくれたと思う。僕と出会うまで、よく生きていてくれた。
アシェリアの救いになりたい。ヒカルは心の底から、そう願った。
このときのことを、ヒカルは忘れなかった。アシェリアの唇の柔らかさを、吐息の熱さを、心臓の音を、身体に刻まれたいくつもの傷を、琥珀色の澄んだ瞳を、いつまでも忘れなかった。
ずっと後になって、イシュタルの古代語を学習したヒカルは、アシェリアの神話を読んだ。
そこには、アシェリアに消えない傷を付けた神のことが、誇らしげに書かれていた。
彼は
彼は多くの国を攻め、領土を拡大した。中でも熱心に、
彼の軍の放つ矢は必ず敵を貫き、兵は無敵を誇った。抵抗するものを殺し、命乞いするものも殺した。
宮殿にあっても、彼は毎日人を殺した。
神の力を高めるためだった。
神の力とは思いの力でもある。出来ると思える事が増えれば、出来ることも増える。
彼は自分の力を確信するために、捕虜や奴隷を集め、神の力で死体の山を築いた。
ある時、彼は美しい奴隷の娘に出会った。殺すのが惜しい美貌だ。
だからこそ殺さなければならない。何者をも殺せる力を持つと証明するために。
彼はその娘に命乞いをさせることにした。自らが、より躊躇うように。それを乗り越えたとき、彼の力は一層高まるだろう。
彼はまず、彼女と百人の命を天秤にかけさせた。
命乞いをすればお前は助けてやる。だがこの百人は死ぬ。
娘は命乞いをしなかった。どうぞ殺してくださいと跪いた。
次に十人と比べさせた。十人には
娘は今度も命乞いをしなかった。跪いたまま、自分を殺してくださいと言った。
最後に
彼は娘の頭がおかしいのではないかと訝った。彼の価値観では、
彼は、娘にどうしても命乞いをさせたくなった。娘は死ぬという実感がないのだろう。ちょっと痛めつけてやれば、泣いて命乞いをするはずだ。
ところが娘は音を上げない。拷問吏に鞭打たせ、囚人たちと同じ檻に一晩中閉じ込めたあとも、娘は自分の命よりたった一人の
彼は怒り、拷問吏に命じて娘を徹底的に拷問させた。爪を剥ぎ、目を潰し、溶けた鉛で臓腑を焼いた。
娘は死ななかった。それどころか拷問の傷はたちどころに癒えた。
娘は神となっていた。たった一人の
神となった娘は、軍神を殺した。残酷にも、
その悪しき神の身体には、今もこのときのの傷跡が残っている。
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